「あれはなんだ」
「あなたの記憶の光です」
「記憶の光、だと」
「そうです。この舟が審判の門に辿り着くまでの道中、あなたは人生の欠片たちと出会います。それらは現在のあなたから抜け落ちている、大切な記憶ばかりです。あなたはそのすべてを回収しなくてはなりません」
極めて業務的で淡々とした説明だった。それに合わせて覆いが小刻みにゆれ、櫂が黒海に波紋を呼ぶ。
「あなたはこの旅路の果てに、天国と地獄、どちらかの門をくぐります」
そこには冷厳な響きがあった。男は開けそうだった覆いを用心深く被りなおす。着ている黒衣が男の心根までも巧みに隠し、真意をこちらに掴ませない。
「笑えない冗談は止してくれよ、なあ」
動揺は隠そうにも隠しきれなかった。なにせシャツとズボンのポケットは空っぽ、どこを探しても財布や時計が見つからない。いわゆる丸腰状態で、得体の知れない男とふたり、真っ暗な世界を舟で渡っている。
こんなことが果たして、現実にありえるだろうか。
わたしの狼狽などおかまいなしに、舟は着実に進んでいく。否が応でも光に意識が集中する。そこであることに気づいた。謎の光の中心によくよく眼を凝らすと、なにかが紛れているではないか。
「あれは、なんだ」
思わず目を細める。それは一冊の単行本のようで、こちらに末広がりな陰影を伸ばしている。
「本、なのか」
「今に分かります」
小舟が光に最接近した場所で、わたしは躊躇しながらも身を乗り出した。細心の注意を払いつつ光の中心を覗き込む。そして陰影の正体に我が眼を疑った。
光のなかに紛れていたもの。それはわたしの名前が書かれた国語の教科書だった。
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「ねえ。待ってよ、敬(けい)ちゃん」
敬ちゃんとぼくは、小学校に入学して以来の友達だった。いたずらで先生に怒れるのも、満点のテストを喜ぶのも、いつも一緒。いわゆる親友って奴だ。
「諫(かん)ちゃん。ここまでおいで」
ぼくと敬ちゃんは学校が終わると、雑木林や裏山で探検ごっこに出かけるのが好きだった。敬ちゃんは台風が連れてくる突風みたいに走るのが早い。ぼくがどれだけ頑張っても、その背中に追いつけないんだ。敬ちゃんは缶蹴りだってお手の物、ベーゴマやメンコだって大得意。みんなから一目置かれていて、言うなればクラスの人気者だ。そんな敬ちゃんの側にいると、ぼくの胸のまんなかあたりがもやもやして、なんだか苦しくなることがある。
「ああ、まただ」
ぼくたちはその日、ザリガニ捕り競争に熱中していた。学生帽とランドセルを木陰にほっぽりだし、側溝でちょこまか動きまわるザリガニを夢中で追いかける。田んぼには湖みたいに水が張られ、緑の葉っぱがぴょんぴょんと頭を出して夏色の風に吹かれている。
「うまくいかないなぁ」
「よし、もう一匹捕まえた」
調子の悪いぼくとは違い、敬ちゃんはザリガニをどんどんどんどん捕まえていく。肩から下げたプラスチックケースはすぐに真っ赤っかだ。敬ちゃんが動くたびにわしゃわしゃと耳障りで、ぼくはいつも以上に大きな声で流行りの歌をうたった。
「いいかい、諫ちゃん。網はゆっくり動かすんだよ」
触角の折れたどんくさいザリガニが、敬ちゃんの新品の網に吸いこまれていく。ぼくは唇の柔らかい部分をじわりと噛んだ。
「ぼくはぼくのやり方があるんだから、これでいいの」
敬ちゃんにお尻を向けて、さっきより乱暴に縫い目がほつれた自分の網を動かした。なんだい、敬ちゃんのバカ。今に見てろよ。けれどもザリガニたちは、ぼくのときだけ、そそくさと逃げていく。そうしているあいだに、お日様が山の向こうへと沈んでいく。敬ちゃんは欠けた前歯を流れ星のようにきらりと光らせた。
「惜しかったね。今日はここまでにしよう」
敬ちゃんは網を引き揚げるとケースをひっくり返し、ザリガニたちを溝へ帰した。ぼくはちっとも面白くなくて、溝にへばりついたガム跡に小石を蹴った。網を振り回した腕は、懸垂したあとみたいにくたくただ。