導かれて
大学へ進学しても、私の体の問題は相変わらずでした。みんな、急に大人になったみたいに、サークル活動や、合コンと、楽しそうでした。私は、体力がついていけないし、もう慣れっこなので、(自分は、みんなとはちがうのだから)と、別に、羨ましく思ったりしませんでした。
母から「いつも笑顔でいなさい。そうしていれば、きっと幸せになれる」と言われていた私は、足がどんなに痛くても、友達と微笑み合って、通学しました。
喘息も、足の裏も、見えないので、誰にも知られないまま、私は一人、がまんしていました。その母が、娘時代に華道を習っていたので、亡くなった祖母は、嫁の母に、毎年、お正月には松を、お盆には槙を、座敷の床に生けさせていました。
お花を生ける母の姿には、いつも、凛とした、何か特別な空気が感じられ、私は(素敵だなぁ)と憧れていました。母は「たしなみだから、華道と茶道は、いつかは習いなさい」と言っていました。
それで、私は、大学のクラブ活動を選ぶ時に、体力もいらなくていいと思い、華道と茶道のクラブへ入部しました。その華道が、嵯峨御流(さがごりゅう)でした。この「ご縁」が、ずっとのちに、ガン闘病をする私の心を支え、救ってくれる道になろうとは、この頃、思いもしない事でした。
また、高校と同じく、仏教の教えを受ける「宗教」の時間があり、祈りが習慣の私は、ごく自然に心惹かれ、熱心に講義を受けていました。そんなある時、「宗教」担当の佐藤平(たいら)先生から、誘って頂き、有志数人で、先生が懇意にされている、瀬戸内寂聴さんに会いに、京都嵯峨の寂庵へ、伺わせて頂く事になりました。
爽やかな初夏の日でした。文学少女だった十八歳の私は、胸がドキドキと高鳴りながら、寂庵へ伺った事を、覚えています。
お会いした寂聴さんは、お顔が輝いていらして、本当にお綺麗で、お優しく「皆さん、若いわねぇ。若いって、素晴らしい事ですよ。今を大事にして下さいね」と、仰いました。
難しい話は何も仰らず、ただニコニコと笑っていらっしゃいました。私は、持って来た寂聴さんのご著書『寂庵説法』を出し、サインをお願いしました。寂聴さんは、机に硯と筆を用意され、その本の表紙を開き、見開きの右ページに、可愛らしいお地蔵様のお顔の絵を描かれ、左ページに、ご自分のサインと、私の名前を書いて下さいました。
私は、それを受け取ると、うれしくて、大事に胸に抱きました。その時、まさか、自分も、同じように仏道に帰依し、作家になろうとは、思いもしませんでした。
この本は、今も私の本棚に、宝物として、大切にしまってあります。人生には、見えない糸のような、導きがあるのだと、思わずにはいられません。