雨に唄えば

「雨に唄えば」で最も大がかりなナンバーは、映画の後半十三分余りにわたり繰り広げられる“ブロードウェイ・バレエ”である。

元々コムデンとグリーンの脚本では映画の最後に大がかりなバレエ・シーンが想定されていた。だが、ジーンは「巴里のアメリカ人」の二番煎じになることを嫌い、映画の最後にバレエを入れることに乗り気ではなかった。オコンナーとコミカルな内容のダンスを踊るはずだったが、それ以上のことは何も決まっていなかった。

ようやく五月末までにフリードのヒット曲“ブロードウェイ・メロディー”を使うことが決まったものの、撮影が始まった六月になってもバレエの具体的な内容は明らかではなかった。

この時点で「巴里のアメリカ人」はまだ公開されていなかったが、フィナーレのバレエの素晴らしさはハリウッド中の噂になっていた。フリードは「雨に唄えば」にも同様に大がかりなバレエを入れることを望んでいた。

バレエのスケールを大きくするため、最終的に “ブロードウェイ・メロディー”に“ブロードウェイ・リズム”を組み合わせたナンバーが作られることになった。レニー・ヘイトンが編曲を担当し、この二曲を一続きの曲に仕上げた。だが、ここで大きな問題が起こる。

大作になったことで稽古や撮影に長い時間が必要になったものの、映画の撮影スケジュールは遅れていた。オコンナーは秋からテレビのコルゲート・コメディー・アワーのホストの仕事が入っており、その後も映画フランシス・シリーズの新作が予定されていた。稽古に入る時間的余裕はなかった。ジーンは内容も相手役も変更を余儀なくされた。

ここでフリードが相手役として白羽の矢を立てたのがシド・シャリースだった。

一九二一年、テキサス州アマリロで生まれたシド・シャリースは、バレエ好きの父親に影響され地元のバレエ教室に通い稽古に励んだ。十四歳でバレエ・リュス・ド・モンテカルロに入団した彼女は、本格的なバレリーナへの道を歩きだす。

しかし、舞踊スタジオのバレエ教師ニコ・シャリースのプロポーズを受け一九三九年に結婚。バレエ・ダンサーとしてのキャリアを断念することになる。ロサンゼルスで夫の経営する舞踊教室の補助教師を務めながら、四十二年には最初の子供を出産するなど平凡な家庭生活を送っていた。

ところが、知人でバレエ・リュスのダンサー、振付家でもあったダヴィッド・リシンから、彼が振付けを担当するコロンビアのミュージカル「サムシング・トゥ・シャウト・アバウト」(’43)の中で一緒に踊るよう依頼されたことが映画界入りのきっかけとなった。