ところが、日本の大学などで教えられている建築史のテキストからは満州国での日本人の足跡に関する事項が、ほとんど抜け落ちています。日本建築史にも世界建築史に入らない、エアポケットのような存在です。
しかし、満州国の首都、新京として開発された長春は、戦前日本の都市建設の歴史の金字塔と言って良い存在です。何もない荒野にゼロから広大な都を立ち上げた経験は、日本人にとって平安京以来のことだったのですから。
かつて日本人が満州に建設した建物は、未だに数多く現存しています。その多くは、歴史的建築物として大切に保存活用されています。さて、中国の近代歴史的建造物の保存活用と、日本における保存活用には大きな違いが感じられます。一言で言えば、中国では使い続けることを優先し、日本ではオリジナルを物理的に保存することを優先しているということです。
中国では、吹き付けタイルやペンキ塗装により塗り替えられ、日本の文化財保存の価値観では「残念な保存」となっている建物は少なくありません。現代風に改修、改造されている建物も多くありますが同時に、当初と同じ用途、内装で場合によっては家具まで同じレイアウトで使い続けられている建物も驚くほど多く残っています。
ハルピンではかつて満鉄が経営していた旧ヤマトホテルが龍門貴賓楼として今でも運営され、エントランスから2階へ上がる階段周りなど、オリジナルの佇まいが残されていますし、長春の旧関東軍司令部は中国共産党吉林省委員会として利用されています。大連の旧満鉄病院は大連大学付属中山医院として、当時としても東洋一といわれた規模の建物を残し、デザインをそろえてさらに増築し、大病院として営業中です。
ものすごい速さで新陳代謝し変貌した中国の都市ですが、100年前からの歴史の連続性を感じられる街と建物を残しています。それに対して、日本の街づくりと文化財保存は、建築物を「モノ」として扱い過ぎているのではないでしょうか。そこでの「営み」の連続感を含めて保存しなければ、他人の家の遺品のような古ぼけた厄介者にしかなりません。
カタチは正確に保存されていても用途として死んでいる日本の文化財保存には、そこでの「営み」の連続性確保の視点が欠けています。そのことが、街並みや建築からのリアルな歴史感を失わせているのではないでしょうか。これは、建築史の問題にとどまらない大きな問題です。
「東アジア」のアイデンティティは、否応にも日本の統治経験に立脚せざるを得ないとすると、今日の日本の歴史感覚の欠落、空白は、「東アジア」の人々を苛立たせます。満州に関する記憶の欠落は、その最大のものであると言えるでしょう。私たちはそれを埋めなければなりません。