六 第二の人生 結婚 子育て
昭和四十七年、子供を死産して二年後、やっと初めての子供に恵まれた。子供好きの夫に待ちかねた歓びを届けられて、満たされた日々だった。
初めての赤ん坊は、昼間は機嫌よく過ごす女の子だったが、夜は夜泣きを繰り返し、子育ては睡眠不足との戦いから始まると知った。それでも健康な我が子の温かい体を抱ける喜びは何にも代えがたいものだった。
ピンクのベビー服をきた長女の、キラキラした瞳と、赤ちゃん独特の甘い匂いが私達夫婦に幸せをもたらしてくれた。
サラリーマンだった夫が独立し、新しい生活が始まったのもこの頃だった。
グラフィックデザインの事務所を大阪市内に開業したのだ。仕事はサラリーマン時代に付き合いのあった印刷会社からの注文が多く、納期に追われた。
その結果、睡眠時間も少なくて、休日もほとんどなかった。慣れない営業もしなければならず、体が悲鳴を上げたのか、長女が生後四か月になって、ニコニコと、愛嬌をふりまくようになった頃、夫は発熱と頭痛が続いて、検査入院をすることになった。
結局、原因がはっきりしないままに軽快したため、退院とはなったのだが、この経験から少しでも休息の取りやすい、ストレスの少ない生活が夫には必要だと感じたので、宝塚の実家を離れて、職場の近くに住居を探すことに決めた。
大阪市北区に、転居先を探し、最終的に落ち着いたのは、JR環状線の天満駅まで歩いて八分の、駅前の繁華街から少し離れた場所だった。
借りた部屋は、仕事部屋が一部屋とれる3DKのマンションだった。目の前に環状線が走っているし、近くに桜ノ宮のホテル街はあるし、子育てに向いているとはとても言えない場所だったが、夫の健康のために、仕事相手が通いやすい場所で、仕事場と住居を一緒にすることにした。
家族が増え、仕事量が増えていったら、別室を追加で借りて、仕事場と住まいを分けることにするつもりだったが、当面はこの態勢でやっていくことにしたのだ。
住み始めて、自宅周辺の環境が興味深かった。環状線の天満駅は、東洋一長いと言われる天満の商店街のほぼ中央に位置し、買い物が楽しめる街だった。
天満の卸売市場も近くにあり、その頃は仲買人以外の一般の買い物客も受け入れていたので、安くて新鮮な野菜や魚が手に入り、活気のある会話が楽しい市場だった。
もう少し南に下ると天神祭で有名な大阪天満宮があった。冬は境内に梅の花が咲き、夏真っ盛りの日には、天神祭が開かれた。
商店街には、大小様々のお神輿が繰り出し、アーケード一杯に、わっしょい、わっしょい、賑やかな掛け声が掛かり、鉦や太鼓のお囃子の音に、否が応でも心が躍った。
浴衣に赤い襷をかけ、ねじり鉢巻きで、お神輿を担ぐ人達や、傘踊りをして商店街を練り歩く人達の熱気に気押されて、大阪はエネルギッシュな街だと感じさせられた。
天神祭は船渡御のある祭りで、夜には提灯の明かりを川面に映して、お囃子で賑やかな船が何隻も、神輿を乗せて、家の近くの大川を上り下りし、その川岸では花火がたくさん打ち上げられた。川の両岸には大規模な夜店が並び、露店の明かりがどこまでも続いているようだった。
毎年七月になると、お祭りの小さな櫓が天満の駅前に設営されて、小気味よいリズムのお囃子の練習が始まる。買い物途中などで、その音色を聞きつけると、わくわくしてきて、それからは毎年天神祭を楽しみにするようになった。私もすっかり浪速っ子になったようだ。