大阪に転居してから、二年おきに二人目、三人目の子供が生まれ、子育てには不向きな場所だと思いながら、繁華街の近くで三人の子供を育てた。
大阪での生活の中で、忘れられないのは、子供達それぞれの小さい姿だが、女の子は、同性のせいか行動は想像がつき、大胆でもなく、振り回されたとか困らされたとかいう実感はあまりなかった。
ところが、男の子は想定外の行動が多くて、驚かされたことが多かった。その都度意外性があって印象に残っている。
長女は背の高い夫に似たのか、小さい時から上背があり、体が大きい分、周囲からはしっかりした子と見られがちだった。ところが、本人は至って気の小さい、泣き虫だった。
外で、母親の姿が一瞬でも見えなくなると、
「お母さん、どこ? お母さん」
と泣き出した。その点は、弟が生まれ、妹が生まれても変わらなかった。
こんな子が幼稚園に行けるのかと随分心配した。それでも幼稚園入園の年が来て、何度も言って聞かせると、聞き分けのいい子でいようとする娘は、口では、
「わかった。泣かないで行く」
と言った。入園式の当日は、幼稚園では、母親と一緒に移動できるようにしていたので、泣かないですんだが、翌日の朝、目が覚めたとたん、今日こそは母親のいない幼稚園を想像したらしく、
「今日も幼稚園に行かなあかんの?」
そう言ってしくしく泣きだした。
近所の仲良しの子が誘いに来てくれて、それぞれ母親と一緒に歩いて幼稚園まで行ったが、角を曲がると突き当りが幼稚園という場所にまで来ると、オイオイと泣き出した。入園当時は泣く子がたくさんいるので、幼稚園側も門のところまでたくさんの先生が迎えに出ていて、泣く子は一人一人ゴボー抜きで、宥められつつ建物の中に連れて行かれた。
昼頃迎えに行くと、私の姿を見て、これ以上ないようなご機嫌の笑顔で、手を振っていた。その日も午後からは、兄弟や友達と遊んでいたが、夕方になると、
「明日も幼稚園に行かなあかんの?」
と又、しくしく泣きだした。
それからは毎日、このパターンの繰り返しで、三年保育の一年目は泣いて過ごした。
今から思えばそんなに嫌なら年少はやめさせてもよかったのかもしれないと思うが、当時は、新米の親としては、『よその子ができることなのだから、この子もできるようにしなければ』と思い込んでいたのだろう。親が未熟だったと思う。
泣いて過ごした一年目が終わり、二年目になって、急に本人の意識が変わった。泣くことはすっかりなくなった。時期が来ればこうなるのだと、一人ひとりの個性に沿って対応すべきなのだと、子供に教えられたようだった。