そのときジンは園長先生の顔がいつもとはちがうのに気がつきました。大変怖い顔にみえました。それでジンは園長先生が突然ライオンになったと思いました。ジンはライオンが大好きです。
まだ東京に住んでいたころ、近くにあった動物園へ毎日のように出かけていってライオンの檻の前で何時間も過ごすことがありました。将来はライオンの飼育係になるのが夢でした。特にライオンが何かの物音を察知して真剣な表情をする一瞬が好きでした。危険から仲間を救おうと身構えているのです。
勇敢で力と愛にあふれていました。その日の園長先生の顔はちょうどそのときのライオンに似ていたのです。やがて、ミナコのお母さんが来ました。これで、全員の保護者がそろいました。園長先生はほっとして、ミナコのお母さんに保育園に残るようにすすめました。しかし、ミナコのお母さんはどうしても帰ると言いました。
先生は何度も止めましたが、残した家のことが気になるようでした。先生の手を振り払うようにして、ためらっていたミナコを無理やり乗せて、車を走らせました。車に乗ったミナコは、少し、ほっとした気持ちになったのでしょう。
みんなに向かってうれしそうに手を振りました。それを見た子どもたちは、いっそう自分たちも帰りたいという気持ちになりました。中にはシクシク泣き出す子もいました。お母さんたちも、何やらヒソヒソと話し合っていました。その時です。海のほうから黒い、真っ黒い波がいきなり押し寄せてきたのです。
津波です。本当に津波がやってきたのです。
同じ時、ミナコたちは海岸沿いの道を走っていました。前にも、後ろにもたくさんの車が走って渋滞していました。その時、突然津波が押し寄せてくるのが見えました。お母さんは、とっさに車の窓をあけました。
しかし、気がついた時には、たちまち他の車とともにミナコの乗った車も呑みこまれ互いにぶつかりあいながら、来たほうへと強い力で押し流されていました。ゴオンギュルルルゴオンギュルルル幾億幾千万という数え切れない海の怪物がひしめき合って、うなり合ってすべてのものを破壊し、呑みつくそうとしているかのようでした。ミナコの車は木の葉のように水の中を旋回し始めました。
やっとのことで、ミナコをたすけて、お母さんは車の屋根にはいあがることができました。やがて、雪が舞い始めました。ふたりともずぶぬれでした。寒さで凍えそうでした。
「お母さん」
ミナコは、ただただ震えてお母さんの腕の中で泣き叫びました。お母さんはなすすべもなく、ミナコを抱きしめたまま、やはり、泣いているようでした。しきりに、「ミナコ、ごめんミナコ、ごめん」と、言いました。
あの時、園長先生の言葉に耳を傾けなかったことを後悔したのです。その時でした。水の轟音の中でミナコはかすかになつかしい声を聞いた気がしました。確かにそれは園長先生の声でした。
「ミナコミナコ」
その時不思議なことに、車はちょうど保育園の園庭まで流され、みんなのいる「高い場所」のふもとにひっかかっていたのです。それを最初にみつけたのは園長先生でした。行ってしまったミナコたちのことが気がかりで、園長先生はずっと窓に顔を押し付けて海の方角から目を離しませんでした。心配で涙が後から後からあふれました。
その時、黒い濁流の中に赤い車を見つけたのです。そして、それが、保育園の柱にひっかかるのも見ました。先生はすぐに窓から身を乗り出し、屋根まで降りるとミナコの名を何度も呼びながら、必死で手をのばしました。ようやく気がついたお母さんは、ありったけの声で叫びました。
「先生。ミナコをお願いします、何とか助けてください」