第一章 3人の出会い
市川は、自分が某有名国立芸術大学を卒業していることを大いに自慢し、クラシック以外は音楽ではないと仰せになった。勉はこれを聞いて、冗談じゃない!とまたもや強い憤りを感じた。
勉は常々思っている。クラシック音楽だけが人に感動や勇気を与えるのか? そうやないやろ! ポップスや歌謡曲や演歌や民謡や、童謡にだって人を感動させる名曲はある。大体クラシックというと、お高くとまりやがる奴が多いが、宗教音楽は別として、元をただせば、昔のヨーロッパの放蕩貴族どもが、園遊会や晩餐会の時に演奏させた、たかがバックグラウンドミュージックじゃないか。
大体、クラシックは高級で、ポピュラーや歌謡曲などは低俗などという、固定観念を持つのがおかしいのだ。もちろん、クラシックがダメだと言うのでは決してない。クラシックにはクラシックの良さが、ポピュラーにはポピュラーの良さが、歌謡曲には歌謡曲の良さがある。名曲は、ジャンルに関係なく名曲なのだ。
クラシックにも駄作はあるんだ。単純に一括りにして比べること自体が、全くの誤りなのだ。勉もブラームスの4つの交響曲が好きだが、ポップスも好きである。
高校生にもかかわらずフランク・シナトラの歌が好きで、なんとも言えない男のダンディズムに憧れを感じていた。また、童謡のジャンルにおかれているが”ふるさと”は琴線にふれ、聞くたびに胸を熱くさせられた。勉は、「信楽タヌキのくそ野郎!」と口から出かかったが、飲み込んだ。
学年主任の古文担当の水田は、例のごとく高圧的で、生徒を見下しながら授業をした。まるでそれが彼にとっては、プライドを保つ唯一のものであるかのようであった。こいつはコンプレックスの塊で、その反動で生徒にこんな態度をとるのだろうかと勉は思った。学年主任の水田といい、担任の喜田、数学の早川、音楽の市川、ここの教師たちの全てがそのように思われた。幻滅を味わう材料が、増えるばかりだった。
勉は独特の正義感を持ち、妙に一本気なところがある性格から、当然、この高校の教師に許せないところが多かったのだ。ところが、何事にも例外があるように、勉が教師たちに失望する中で、世界史の越智は、この高校の中では異色であった。最初の授業で語った言葉は、勉の心に響いた。