無謀な経済政策

大昔からどこにでも見られる一般的慣習として、平和時には蓄えをして戦いに備え、征服或いは防衛の手段として事前に財を蓄積する。世の中が乱れ、混乱に陥った時には、決して並外れた課税などに頼らず、ましてや借金することはない。政府がその歳入をすべて費消してしまう状況では、必ずその国は衰弱し、不活動化し、不能状態に陥ることを歴史は教えてくれる。(1)

デイビッド・ヒューム、“Of Public Credit”(1752)

南北戦争後におけるアメリカ債務の2度目の急激な増加はウッドロー・ウイルソン政権(1913-21)時で、第一次世界大戦(1914-18)へのアメリカの参戦をファイナンスする関係で生じた。

国家債務は29億ドルから274億ドルと爆発的に拡大し、845パーセントの増加となった。この債務は一般国民に自由公債を発行する形で一部ファイナンスされた。これまでの戦争では裕福な個人の資金提供者から資金が調達されていた。

最初から言うと、フィラデルフィアのロバート・モリス(アメリカ独立戦争)、ステファン・ジラルド(米英戦争)、ニコラス・ビッドルとジェイ・クック(南北戦争)、そしてニューヨーカーであるJ・P・モーガンとその息子ジャック・モーガン(第一次世界大戦)だった。

ソロモン・P・チェースは南北戦争当時、財務長官であったが、南北戦争の資金調達の一部として少額額面金額で無利子、要求払いの元来正貨に交換可能な証券を一般国民に対し発行した。後にその償還は延期された。

これらの証券は裏側が緑色のインクで印刷されていたためグリーンバックスと呼ばれたが、実際の証券というより、むしろ貨幣の原型というべきもので、法定の貨幣のように流通した。第一次世界大戦で発行された自由公債は戦争金融におけるイノベーションであり、それらは財務省の債務であった。

何百万人のアメリカ人にとって自由公債の購入は初めての有価証券投資の経験であった。自由公債は普通のアメリカ人の心の中で愛国心と戦争金融を明確に結びつけるものだった。1918年のアメリカと連合軍の勝利に続き、国の債務は再び減少した。

ハーディングとクーリッジの政権は1921年から1929年までの8年間連続財政黒字を計上し、国家債務を176億ドルまで、戦後の突出した金額から36パーセントの減少を達成した。

ハーバート・フーバー(1929-33)の時代には、大恐慌の最悪の年で需要があったにもかかわらず、国家債務は若干増加するに止まった。フーバーが政権を去ったときには国家債務は190億ドルで、ウイルソンがその更に12年前に辞めた時と比較しても31パーセント減少していた。

1787年以来明らかになっている債務の拡大と縮小のパターンはそのまま継続していた。フランクリン・D・ルーズベルト(FDR)政権の最初の2期(1933-1937、1937-1941)には戦時にのみ国家債務が膨らむというほぼ150年間のパターンから外れる事態が生じた。