羽衣の傳説
朝鮮神宮の完成時(大正14年・1925年)と、終戦(昭和20年・1945年)から約3か月後の11月17日を以て、朝鮮半島の神社がすべて廃止になり、朝鮮神宮の撤去作業も終了するそのときもそば近くにいたことから、最後まで豊田(伊勢神宮外宮の豊受大神)靖国(明治神宮外宮にあたる靖国神社)の名を持つ者としての秘密の任務に当たり、朝鮮神宮の始まりと終わりという短い歴史を見届けたのだろうと思われます。
南北分断後の現在は、北朝鮮領金策市となっています。古くから製鉄が盛んな場所で、日本と朝鮮半島の須佐之男命伝説との関係も、深く鉄が関わっていると言われています。
昭和になると、朝鮮総督府の経済政策も、大正期までの南鮮域を中心とした原始産業(農業・漁業・食品加工・繊維産業)の育成・発展から、軸を北鮮域の重工業振興へと移し出しました。
そのため、現在も北朝鮮の電力を助けている鴨緑江や豆満江の水力発電所の開発や、それに併せての工業団地整備が行われ、住民の移動だけではなく資源や製品輸送にも欠かせない鉄道の敷設が急がれることになりました。
これによって、朝鮮半島全域から、先に近代都市になった京城に流入し、偏りがちになっていた人口を、北鮮域の平壌側にも分散させる予定でした。
それと同時に、鋳造、鉄工、港湾、造船、炭鉱など、同じ場所に出稼ぎに来ていた本土の地方出身者と仕事の取り合いで軋轢を生じたり、本土日本人には「内鮮一体」「一視同仁」を基礎とした教育が行われなかったために、侮蔑的言動を取るものが多く、内と外の日本人の見せる顔の違いに戸惑い、日本に反感を覚えて帰って来ることの多かった、朝鮮半島からの出稼ぎ労働者を減らす狙いがありました。
これは、ビラやパンフレットを持参し、そのような労働場所に勧誘に来ていた内地の社会主義者や共産主義者に反天皇制を吹き込まれ、危険思想に染まるリスクを減らし、地元朝鮮経済発展に回す狙いでもありました。
吹奏楽年鑑にも記載されている、伯母千枝子の所属していた第二高等女学校鼓笛隊の全体写真になります。新韓国建国は果たせなかったものの、各吹奏楽団の設立年が示す通り、大正時代で近代化の基礎固めが終わり、昭和に入ると、文化面でも教育の充実が図られていました。
必要な楽器も、学校予算や各学校を支えていた地域の人たちの寄付などでまかない、内鮮人学生による演奏会も行われ、音楽の授業も、朝鮮半島でも熱心に取り組まれていきました。
戦地ではないため、戦況が悪化するまでは、毎日練習に励む女学生の時折調子が外れる音楽を、学校すぐ近くの軍人たちがのんびりと塀越しに聞いていたそうです。