この、本土とは違い比較的戦争中も穏やかさを保っていた京城の日常の風景が大きく変わるきっかけは、昭和20年(1945年)6月の沖縄陥落でした。
開戦以降、日本本土の主要都市は、アメリカ軍の空襲によって甚大な被害を出していましたが、朝鮮半島最大都市京城を含め、朝鮮半島はまったく攻撃を受けておらず無傷でした。
しかし、万が一のことも想定されるため、早めの疎開が推奨されて、昭和20年(1945年)年頭から徐々に、親類縁者がいる人などが、北鮮域へ伝手を頼って家族ごと疎開を始めたり、女性や子供だけを預かってもらうようになっていました。
これが、南域海側からの朝鮮半島上陸作戦時に、前線基地となりうる沖縄がアメリカ軍の手に落ちたことで、満州と本土を中継する重要拠点であり、大正天皇がお見えになられた聖地でもある京城を守護する「京城決戦」をにらんだ本格的な疎開計画に移行したのです。
京城を失えば鉄道は止まり、満州との連携は取れなくなり、兵の交代、物資の補充も滞るため短期間で満州側の日本軍は疲弊し、崩壊してしまいます。さらに、戦争中も大事な軍の兵糧を支えていた朝鮮半島の米を失えば、日本全体が極度の米不足に陥ることは目に見えていました。
何よりも、国防の要と「大東亜共栄圏構想」の目玉の朝鮮半島を失えば、目的のない、意味のない本土での戦争を、拠点化された朝鮮半島側の空港や港から押し寄せる、アメリカ軍を主軸とした連合軍と戦うだけになってしまうのです。
この最悪の事態を防ぐため、昭和21年(1946年)3月までの休校が決定し、父の通っていた元町国民学校(昭和16年改称)も縁故疎開に加え、沿革史が示す通り、子供たちを安全と思われる地域(より内陸北鮮側)への、集団疎開をさせる措置をとりました。
7月には、配置転換となった朝鮮第7619部隊が学校の一部に駐留。漢江を渡って、京城に侵攻するであろうアメリカ軍を迎え撃つ布陣を敷きだしていました。
一方で連日、周囲の学校の児童たちは、龍山駅の操車場で、貨物列車に早朝から家族がリヤカーで運んできた家具や子供たちの疎開荷(学用品や着替え、布団、茶碗)を積み込み、縁故疎開地や集団疎開地へと出発して行きました。
また、京城駅でも、すでに多くの本土の港が、アメリカ軍の空襲により機能を失いつつあることと、本土決戦準備のこともあり、本土からの増派が難しくなった代わりに、急きょ満州方面から配置転換され、現地を極秘に立った部隊が続々到着していました。さらに劣勢挽回のために、平壌か満州の工場から運び込まれていたという化学兵器「イペリットガス」が、密かに龍山の軍事施設に収められました。
このため、近々、挺身労働や家の都合で京城から疎開しない家族には、自軍の兵器の存在は伏せつつ、アメリカ軍が化学兵器を使用する可能性があるとの説明で、防毒マスクを買うように愛国班(本土の隣保班、隣組と同じ)から回覧板で案内があったそうです。
「いよいよ、自分たちが暮らす朝鮮半島が戦場になる」近づく戦争を感じ出していた京城の人々。
そして、運命の日8月15日がやって来ました。