アドラーは、患者に対しては平易な言葉で病気の説明をして、患者の訴えに真摯に耳を傾けたといいます。医者と患者が対等な立場で、お互いを信頼し合える人間関係を作りながら、治療を行っていました。

心理学三大巨匠の一人であるフロイトとの関係を見ると、アドラーは、1900年に出版されたフロイトの夢判断を読んで、精神医学に興味を持ちます。多くの医者たちが、夢判断を批判して新聞に嘲笑する記事が出ましたが、アドラーは、フロイトを擁護する投稿をしたことをきっかけに、1902年秋にフロイトが主宰した、心理学水曜会(後のウィーン精神分析協会)に招かれています。

しかし、その後に意見の対立からフロイトとたもとを分かち、1911年に同協会を脱退しています。二人の関係は、師弟関係ではなく同僚の関係だったと言われています。また同協会には、カール・ダスク・ユングも参加していましたが、アドラーとは直接的な交流はなかったようです。

 

アドラーは、1926年に初めてアメリカを訪れて、積極的に講演をして人気を得ました。この時期に『人間知の心理学』をはじめ著書が、続々と翻訳・出版されています。

第一次世界大戦で、徴兵されたアドラーは、従軍医師となり傷病兵の治療を行います。そこでの悲惨な体験からアドラーは、平和や社会的な関心を高めます。

第一次世界大戦でオーストリアは、敗戦国となり急速な民主化の中で、アドラーは、社会主義に関心を持ち政治変革による社会改革を目指そうとします。しかし、ロシア革命を目の当たりにしてマルクス主義に失望してその道を断念します。

その後、より良い社会への改革は、教育を通してのみ可能とする考え方に方向転換し、子供の育児や教育に関心を持つようになります。例えば、アドラーは、ウィーンに世界で初めて公立学校に児童相談所を数多く設立しています。

アドラーは、第一次世界大戦後、ナチスから逃れるために1935年にアメリカに移住しています。

1937年(昭和12年)5月28日にイギリスのスコットランドにあるアバディーン大学での講演最終日に、散歩中に心臓発作で倒れ救急車の中で息を引き取りました(享年六十七歳)。2020年は、生誕百五十年にあたります。