例えば「猫」の呼び方ですが全州では「ゴヤンイ」、それが光州に行くと「グェンイ」といった具合に。

日本でも地域ごとに呼び方が違う例はいくつも見受けられるが、距離的に離れた「九州」と「東北」との違いではなく、それこそ「目と鼻の先の出来事」だ。小さい頃から不思議に思っていたそうだ。

目には見えない「境界」「文化習慣の差」はどこから来ているのだろう。光州と言えば、草浦里ソウホリ遺跡が思い浮かぶ。

狗邪韓国の領域の特定を含めて、当時の「境界線」が現代にもその痕跡を残している一例ではないだろうか

対馬と壱岐を巡って──神話のふるさと

韓国の釜山から日本の玄関口・比田勝港(対馬・上対馬町)まではおおよそ五十キロメートル、フェリーで一時間たらずで到着する。人口三万人の島に韓国から年間三十万人以上の観光客が訪れるという。

和多都美神社や韓国展望所などどの観光地を訪れても、韓国人ツアー客であふれ、日本人のグループは肩身の狭い思いだ。

「防人」という言葉が表しているように、私たちが目にする日本地図では対馬は「日本の辺境」というイメージだが、現地ではなぜか富山県が監修する「環日本海・東アジア諸国図」が販売されている。

この地図は大陸側の視点から日本が描かれているが、それを見るとまさしく対馬は「日本の玄関口」である。古代において先進の金属器文明が、まずこの地からもたらされたことが実感できる。

対馬の神社は『延喜式』の神名帳には二十九社、大小合わせると百二十余社があるという。海洋系民族が航海の安全を祈った天道信仰が今も信者を集めている。

美津島町の阿麻氐留あまてる神社は旧村社でひっそりと祀られているが、「天照大御神」の原型ではないかといわれている。

一見、馴染みのない「比田勝ひたかつ」という地名も、「日高の津(港)」と字面を置き換えてみると、神話の有名な登場人物「日高彦」になる。神話や説話は、はるか天上世界の出来事のように想像していたが、ここに来るとそれが身近な「ご近所」さんの出来事に思われてくる。

壱岐は『魏志倭人伝』にいう方三百里の島「一大国」で、諸国検察吏として伊都国に置かれた「一大率」は、この壱岐から派遣されたという説がある。それを裏付けるように島の中心部に一大環濠集落のはるつじ遺跡がある。

その規模は現在確認されている範囲で百ヘクタール、弥生期の環濠集落として有名な吉野ヶ里遺跡(佐賀県)のほぼ二倍にもなる。規模から推察して地元では「壱岐王国」と命名しているが、「王」の存在を示す記録は見当たらない。

日本最古といわれる船着き場の遺構も出土して、海洋民の面目躍如といった感じである。

魏使にとっての途中経由地として済ませてしまっていいものであろうか。しっかりと見直してみたい。