私はそれから何人かの男と付き合い、別れた。そして、未だに結婚していない。私はおそらく結婚というものがわからないのだ。そして子供を産むということもピンと来ない。

何故なら、私は自分が親になるということを未だに受け入れられないのだ。無防備で甘えられる存在を求めている。ホームセンターに行き交う人々を眺めているが、私は子供になりたいとしか思えない。

親の愛という名の下で無防備にゲラゲラ笑う子供達。弟とゲラゲラ笑っていた日々。それはあまりにも遠く、思い出そうと思っても記憶はなかなか蘇らない。

親の目を盗んで、どんな遊びをしていたか。親のいない間、私と弟がどうやってゲラゲラ笑っていたか。笑っていたことだけが頭には残っているが、それを追い求めて生きたところでもう弟は別の世界にいる。

私はこれから一緒に笑える相手を探せばいいのだが、未だに見つからず。この歳にもなって子供でいたいという私のことを、親の愛のように受け入れてくれる人がいるとも思えず。思い出の中でだけで生きるにはあまりにも寂しく。

記憶にはないが、私にも無防備に笑っていた時期があったのだ。それを忘れることができずに、放りだされた社会の中でいつまでも探しているのだろう。

恐らくそれは弟が産まれる前の記憶で、沖縄にいる頃母親がとても優しかったからだろう。皆から可愛がられ、皆から愛された時期というものがあまりにも鮮明な記憶として残っている。

それを私はいつまでも忘れることができずに追い求め、いつまでも一人で思い出せない記憶の中を彷徨っているのである。

大人になってから、私が子供のように誰かに受け入れてもらい、私が子供のように無防備に甘えることができる環境というものは恐らく存在しない。

しかし、それを追い求めることが私の人生だとすれば、私が子供を産むことなく家族というものを形成するにはどうすればよいのだろうかと考える。

弟のように、どこかの家庭に入り、可愛がってもらうことなのだろうか。私の場合は少し違う気がしてならない。