妄想
大金を手にして、太平洋へ行って、そこから富士山が見えたとしてもそこに希望がなければ恐らく元気は出ないだろう。
全く金が無く、休暇も無く、食べる物も無かったとしても。その先に希望があればどんなことがあってもへこたれず、多少調子が悪くても闇雲に前に突き進むことができるだろう。人間なんてそんなものだ。
栄養でも、休息でも、金銭的な余裕でもない。心を元気にしてくれるものとは、希望の光を見つけたときのアドレナリンだ。その光が確かかどうかということは問題ではなく、あるかどうかわからない光を信じて自分がキラキラしていられるかどうかである。
根拠もなく何かを信じていることは、時として馬鹿にされる。しかし、根拠もないのに全てを疑ってかかる人の目は濁っている。
尚且つ、自分自身をも信じられないとしたら、その人の元気の源はどこにあるのだろうか。
私にはないけれど、何かを守ることなのだろうか。真実などこの世にはない。真実を追い求めるよりも、いかに自分を信じることができるかが重要だ。
誰かが隣で腕枕をしてくれる。しかし、その人は目を閉じて、誰のことを想い浮かべているかなんて全くわからない。どんなに問い詰め、どんなにその人を縛りつけても、本当のことなんてわからない。
隣で眠る彼のことを、本当に大好きかどうか自分に問うた時、本当に大好きならばそれでいい。もしかしたら、この人は別の誰かを想い浮かべているかもしれない。
それでも私はこの人のことが好き。それが一番重要なのではないだろうか。
逆に、この人は私のことが大好きだけれども、私はこの人の隣で別の人の事を想い浮かべている。もしかしたら、この人だって別の誰かを想い浮かべているかもしれない。
しかし、自分だって別の誰かを想い浮かべているのだから、この人の胸の内の真相はどうかなんて考えてはいけないのだ。
BROTHER
大雪が降ったかと思えば、次の日は十二度を超える暖かさ。ようやく春が訪れるのかと思いきや、また真冬の寒さだ。
最近の東京の天候は実に不思議だ。私は非常に寒さに弱い。札幌を出た理由の一つに、寒すぎるというのがある。しかし、気候が暖かければ未だにそこにいたのかと聞かれれば、決してそうではない。
まだ私が札幌にいた二十二歳頃の出来事だ。弟と二人でランチを食べに行ったことがある。久しぶりの再会だった。
「姉ちゃん、あの時俺ら沖縄に残っていたらどうなっていただろうね」
「たぶん結果は今と一緒なんじゃないの?」
「沖縄に残ってみたかった気もするけどね。もしかしたら沖縄にいた方が俺らは楽しかったかもよ」
「うん、たぶん札幌へ来たことは間違いだったよね」
私達姉弟はものすごく沖縄に愛着があった。私は幼少時代の殆どを沖縄で過ごした。祖父母の愛情の元ですくすくと成長した。五歳年下の弟が生まれてからも度々沖縄を訪れた。ムーンビーチへ行って海水浴をしたり、ソーキそばを食べたりしたのをよく覚えている。
私達にとってはまるで楽園のようだった沖縄。しかし、弟が生まれたと同時に北海道へ引っ越してからは、ある意味地獄だった。