そして故郷に北京料理店を開いて、父に調理の基本を徹底的に教え込んだそうでございます。
祖父はそもそも湖南の生まれですから当然湖南料理にも詳しかったはずですが、宮廷に仕えてからというものは北京料理こそ本当の中華料理だという固い信念を抱くようになり、自分が生きているうちに北京料理のすべてを伝えようとそれはそれはきびしい教え方であったと、父が話しておりましたのをよく覚えております。
癇癪をおこした祖父が投げつけたお皿が父の額に残した三日月型の傷に、その証拠を見ることができるのでございます。
かくいう私も、父から料理の基本を教え込まれるときにたびたび鉄拳や玉杓子で殴られて生傷が絶えたことがなく、あちこちに修業時代の傷が残っておりますから、親子三代にまたがるきびしい薫陶であったと思わざるを得ません。
長沙での生活は決して楽ではなかったそうでございます。日本軍の侵攻、蒋介石ひきいる国民軍と毛沢東ひきいる共産党による抗日運動と、その後に続いた内乱は中国全土を疲弊させ、その日の食べ物にも事欠くような有様でした。
その中で北京料理店を営業していくのは並大抵の苦労ではなく、そのうえ頑固な祖父はそんな状態でも料理の材料や味には決して手抜きを許さなかったそうですから、細々とでも料理店をやっていけたのは奇跡に近いことだったと父は述懐しています。
打ち続く戦乱で街は焼かれ、そのうえ頼りにしていた祖父にまで死なれて、ついに精も根も尽き果てた両親は、蒋総統ひきいる国民軍について台湾に渡る心積もりで郷里の料理店をたたみました。途中でどういうわけか一行からはぐれてしまい、しばらく香港にとどまり、第二次世界大戦が終わって二年後に、まだ三才になったばかりの私を連れて日本にやってまいった次第でございます。