奇跡の味
『私の名前は陳素徳と申しまして、新宿で湖南飯店という中華料理店を経営している、今でいうオーナーシェフでございます。
生まれたのは湖南省長沙ですが、三才のときに両親と共に日本にまいりましたので、生まれ故郷については何一つ記憶がなく、私にとっては新宿が実質的な故郷ということになります。
私の家は祖父の代から調理人をなりわいにしてまいりました。祖父は若い頃長沙の有名な中華料理店で調理人をしていましたが、調理の腕を見込まれ、数ある調理人の中から選ばれて清朝の内務府堂の御膳房にあがり、西太后のための宮廷料理を調理したほどの人物でございます。
もっとも宮廷料理を担当したと申しましても、内膳房だけでも数百人はいたという調理人の一人にすぎませんでした。それにいたしましても、全国から選りすぐられた調理人と共に、美食三昧の生活を送られた西太后を満足させてまいったわけですから、その技術はこんにちの調理人の遠く及ぶところではございません。
父から聞いた話でございますが、祖父は最初は外膳房という群臣の大宴席を料理する調理人として採用され、その後異例の出世をして、内膳房の中でも寿康宮茶膳房という西太后の膳房に入ったそうです。
いかに料理の腕がすぐれていたかおわかり願えると思います。ご存じのように、清朝は中国史上初めて満州族が漢族を統治した国家でございます。
軍事・経済両面での著しい発達が、各地方で独自の進化を遂げていた地方料理や地酒や素材をすべて北京に集めて交流させる役割を果たしました。
さらに二六〇年余りに及ぶ統治が中国料理を世界にも類を見ないほど精緻なものに洗練させてまいりました。
祖父が勤めた頃の紫禁城の御膳房は、西太后の徹底した美味追求とあいまって宮廷料理が頂点に達した時期であり、またその宮廷趣味が民間の料理に大きな影響を与えて、北京料理がもっとも発達した時期でもございました。
一九一一年、辛亥革命で清朝が倒れ、皇帝の料理をつかさどっていた御膳房がなくなった後、祖父は北京市内の料理店で働きながら相次ぐ混乱の中を生き延びてきました。
一九二五年、北京の北海公園に、かつての宮廷料理人を集めて御膳に倣ならうという意味の倣膳飯荘という料理店が創られて以来、しばらくはそこで料理の腕をふるってまいったそうですが、老いた祖父はやがて生まれ故郷がしきりになつかしくなり、とうとう倣膳飯荘をやめて、父を連れて長沙に戻りました。