昭和の韓国建国計画
平成23年(2011年)8月21日に、東京お台場のホテルで行われた最後の柳会の集まりの際でした、さまざまな思い出話が語られ流れるなか、日ごろから気にかけていた疑問を、父は突然口にしました。
「垠殿下を王様(皇帝)にするって言っておいて、何でしなかったんだろうね」
すると、間髪入れずにほかの出席者の方から、
「今どなたって?」
と聞き返されると、
「李王垠殿下、王様(皇帝)にするするって言ってたでしょ?」
と父が返しました。前振りもなく父が切り出した話に、誰も戸惑うことなく、普通に繋がっていくことに私は驚いていましたが、このあと、予想外の展開になっていきました。
「あら、その方は大正時代の候補者じゃないの」
「えっ!?」
驚く父をよそに、その方が他の出席者のほうに顔を向けると、
「下関の総督府の官吏だった方がおっしゃってたわよね。昭和14年(1939年)に、朝鮮総督府総督から、垠殿下のお子さんに皇帝候補を替えるって命令を受けたって」
「あ~、あの大阪に移られた方ね」
話を振られた方も自然に応じられて話が進み、昭和の時代に、新しい命令が東京から入っていて、候補者が差し替わっていたことがわかったのです。そのときの話をまとめると以下になります。
「韓国皇帝候補を、これまでの李王垠殿下より替えて、昭和6年(1931年)生まれの李王垠殿下・方子さまのお子様の李玖殿下とする。時期は、殿下のご学業終了ののちすみやかに京城にお入りいただき、就任していただくこととする。よって、大正時代の二の舞いにならぬよう、なお一層の内鮮一体、融和を図り備えるように」
これが、南次郎七代目総督より、一部総督府官吏にのみ、口頭伝達という形で伝えられたそうです。
ご学業終了というのがどの時点なのかや、大正時代の件がいつ失敗とされていたのかは、残念ながら聞くことはできませんでしたが、もともと韓国建国に使う予定だったものは、満州国建国にも使われたという話を、以前に別の方から聞いたこともありましたので、先に実現した満州国建国の影響で、朝鮮社会の日本化が促進、日本名を希望する声や、日本兵となりたいという希望の高まりなどを受けて、止まっていた計画が再び動き出したようでした。