第三章 逢魔が時:幻に終わった韓国の維新

▲京城駅建設作業中に生まれた伯母千枝子の戸籍

大正12年(1923年)9月21日に、京城駅建設工事中の朝鮮京城府漢江通16番地満州鉄道社宅133号の3戸から、祖父靖国によって、伯母千枝子の出生届が出されました。

当時は、朝鮮半島で生まれた日本人の出生届は、一定期間朝鮮総督府が預かったあと、まとめて船で本籍のある日本へと運ばれていました。

千枝子とは、母親の千代子の一字を変えただけではなく、京城駅の完成が徐々に見えるなか、今後ここを中心として、植物の枝葉が伸びるように、朝鮮半島の隅々に鉄道が広がっていくという願い(鉄道の発展は国の発展でもありました)と、日本の国旗のデザインの一つである日輪から放射線状に陽の光が伸びていく姿、末広がりをかたどった「旭日旗」になぞらえて名付けられました。

旭日のデザインは、大漁旗など縁起物としても使われていたものでしたが、このころに満州や朝鮮などで活動していた興亜主義を掲げた日本人にとっては、白人至上主義の下で、過酷な植民地支配を受けているアジアの諸国を我等の手で解放、発展させる、「暗く沈んだ東洋の四方八方に輝く太陽の光を届ける」という意味で好まれていました。

満州鉄道本社があった満州大連の放射線状の道路は有名ですが、満州鉄道・朝鮮総督府鉄道局が、満州朝鮮間を走らせた5大特急、あかつき、大陸、のぞみ、ひかり、興亜を繋げると、「日本より陽が昇り大陸に希望の光が差しアジアが栄える」または「太陽の光(天皇陛下の大御心)をあまねく大陸に届けアジアを解放発展させるが我らが望み」という、自分たちがなすべき信念を表すものになっていました。

祖父靖国も、まさか自分の名に関わる「靖国神社参拝問題」同様、娘の名の由来にまで、今日の韓国から、戦犯旗という因縁を付けられるとは思わなかったでしょう。

幸い両名とも亡くなったあとに、それぞれ馬鹿げた話が出てきましたので、知らずに済んでよかったのですが、現在の韓国の反日史観と、それを利用する朝日新聞社を中心とした一部の日本人によって、日本一の反日風評被害の家族となってしまいました。

伯母千枝子が生れた9月は、帝都東京を文字通り揺るがした、関東大震災が起こった月ですが、朝鮮側にいた京城の日本人たちは、朝鮮半島の人たちとのトラブルはなかったそうです。