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「仁王立ち」が切り開く語りの[場]──『教育哲学会発表論文』より

­山間部の極小規模校での体育では、球技などの単元の時には、他教科の先生方に参加してもらって活­動している。

この年、全校生徒8人だったために、ほぼ全員の先生方の協力をあおいで、ソフトボール­に取り組むこととなった。

この日は単元の2時間目。ゲームの最中に、セカンドを守っていた2年生のN子が、視線はしっかり­とバッテリーの方へと向けてはいたが、腕をぐっと組み、足をしっかりと大地に踏ん張って、まさに仁­王立ちしていた。

守備においては構えることを大切にしてはいた(「球技では、技術が伴わなくとも『構­え』と『声』だけは誰でもできる。それができると技術も伴ってくる」と指導していた)が、キャッチャー­をしていた私は、その姿勢に気づき、一瞬、「注意しなければならないか」という思いが頭を過ぎった­ものの、「いい加減」とか「集中していない」とかいうことではなく、何かを主張しているかのように­感じ取られたからだろうか、そのままにしておくことにした。

­もちろん、その場で注意するということや、近づいて行って「何が言いたいんだ?」と問いただすこ­ともあり得ただろう。

しかし、私がそちらへ視線をやり、気づいていることはN子にも分かっているよ­うに感じられたが、とっさのことではあったが、沈黙をもって応えるというあり様を選択したのである。­

そうしたところ、授業が終わり、校舎へと向かって並んで歩いていた体育科教諭でもある教頭から、

「な­ぜ、注意をしなかったのか?­ ああいう態度を取っていたら、普通注意をしてやらせるだろう!」

と指­導を受けてしまった。­また、職員室に戻ると、学級担任の教師からも、

「N子は注意してやらせれば、ちゃんとやる子だから、­注意してやらせてください!」

と批判と受け取れるお願いをされた。­そうした二人の先生からの指摘があったにもかかわらず、あの場で注意をしてやらせなかったことが­間違いだったとは到底思えなかった。

当時、私はこうした場面場面にことごとく注意・指導する(学校)教育のあり様を「蠅叩き」と呼ん­でいた。まさに〔管理主義〕の流れをくむものとして、嫌悪感を抱いていた。

いわゆる「問題行動」に­対して、「待つ」、「気づかせる」、「黙認する」などという選択肢は考えられない教育観であり、そうし­たあり様に対する嫌悪感が、二律背反と言える逆の方向へと強く振れ、「支援・援助」という子ども中­心的な甘い言葉に惹かれ、次章に出てくる「カウンセリング好き」に陥っていたと言えるのかもしれな­い。