三百六十五日
「人を信頼しすぎてしまうのは、お前が寂しい人間だという証拠だろ」
それについて否定はしなかったが、そういう言い方をされて気分がいいわけがない。確かにそれは当たっているかもしれないが、人を信頼できなくなったらもっと寂しい人間になってしまうだろうというのが私の考え方だ。
では逆に、寂しくない人間がいるとでもいうのだろうか。
私にはあまり警戒心がない。そして、出会う人々のことをすぐに信頼してしまう。その人が真剣に話していることを疑ってかかったりしない。そのため、しばしば利用されやすかったり騙されやすかったりするが、怒りの感情が湧き起こっても必ず許してしまうのだ。
それは、誰かを恨んで笑顔が歪むよりは、許して笑顔でいた方が私にとってはプラスだからだ。かといって、最初から猜疑心を持っていると本来の笑顔は生まれない。
その結果、人々は私に寄って来なくなると思うからだ。たとえ下心であったとしても、誰も寄り付かないよりは寄って来てくれる方がよっぽど幸せなのではないだろうか。
ましてや悪い人ばかりではない。全ての人に下心があるとも思えないし、単純に好意を持ってくれているだけというパターンだってあるだろう。
それを最初からシャットアウトする方が、なんだかもったいないことのように感じる。三百六十五日、素敵な出会いを年中無休で探しているだけなのだ。守りに入ってしまえば、自ずと出会いの幅は狭くなる。
世の中、どこに楽しいことが転がっているかわからないし、どこにいい人が隠れているかもわからない。失敗して痛い目に遭ったとしても、それはそれでいいのではないだろうか。
九十九回失敗したら、百回目は楽しいことかもしれない。それなのに、一回の失敗を恐れてじっとしていたら百回目の楽しみは来ない。
「人を信頼しすぎてしまうのは、お前が寂しい人間だという証拠だろ」
そう言って私を批判し、出会う人間を斜めからしか見られずに自分を守ることに必死な人の方が、私からしたらよっぽど寂しい人生を送るのではないかという気がしてならない。
出会う人々と常に正面からぶつかることは非常に労力の要ることだが、そうすることでしか私は本物を見極められない。たとえそれが馬鹿だと言われても、何もしないで本物を見失うよりはよっぽどマシだ。痛い目に遭っても、回避できない問題というのは皆無に近い。