あの時、稔は、階下の右側奥の方から出て来た男とばったり出会ったのだ。背は低いが、がっちりした体格の男だった。

稔は薄明かりの中で男の顔を見た。そして、思わず声をあげるほど驚いた。四角い顔にギョロリとした大きな目。男は、父、良平だと言えるくらい父そっくりだったのだ。「他人の空似」という言葉があるが、父と早川岩雄はそっくりだ。稔は立ちすくんだ。体が硬くなった。男の顔を見ていると、男も驚きと不審そうな目で稔を見返した。それは、猫と猫がばったり出会って、じっと睨み合っているような姿だったかもしれない。しかし、二人は互いに一言も出さず、その場所を反対方向へ離れ去った。

パチンコ屋の隣の台で見かけたあの男、サングラスをかけ風貌こそ変わっていたが、あの時の男に違いない。

しばらくすると、また電話がかかってきた。不吉な予感がした。稔はためらいながら受話器を耳にした。

「……坊や、思い出してくれたかい? そう、そう、俺はお前さんと、最低2回は面合せしているぜ。あのアパートで見た坊やの様子はただごとではない、とピンと来たんだ。それは、俺の長年のカンというもんだ。だから、俺は、あの場所で、わざわざ坊やとは反対方向へ行ったんだ。だが、すぐ引き帰し、可愛い坊やの後をつけたっていう訳さ。坊やは、ふらふらと歩いているかと思えば、突如、走り出したりしたんで、尾行は大変だったぜ。坊やもたいしたもんだぜ。あれだけの距離をよくも歩いたもんだな。いやいや、俺ばかり長いこと話をしていては、坊やには迷惑だろう。俺に向かって何か言いたいことがあるかい? あるなら遠慮なく話してみなよ、坊や」

「……」

稔は、頭の中がぐらぐらと沸騰するような気持ちだった。体が激しく震えている。

「それにしても、まさか、坊やがデカの息子さんとは思いもよらなかったな。こればっかりは、後で調べてみて俺は嬉しくなったな。デカの坊やとお知り合いになるのは、きっと役に立つことがあると思ってな。大収穫という訳さ」

低く腹の底から搾り出すような男の声だった。

あの事件以来、稔は、はらはらしながら新聞を見ていた。事件後、数日の間は、二宮啓子殺害事件がはなばなしく新聞紙上を埋めていた。新聞に、同じアパートの住人から盗難届が出たこと、盗難の期日と殺人の期日とは異なっている、泥棒と殺人者が同一犯人か、仮に同一犯人ではないとしても、いずれかの犯人がほかの犯人を目撃している可能性がある、というような記事があったことを、稔は忘れることができないでいる。

あの日の泥棒は、やはりあの男だったのだ。思ったとおりだ。しかし、こんな理由に関係なく、香村稔があの男に寄せる関心は普通ではなかったのである。男は稔を二度見かけていると言っていたが、稔の方からは、この男を三度見ているのだ。

一度は、二宮啓子のアパートを出た時、二度目はパチンコ屋。そして、もう一度は、稔が、その男の名前、素性を知るきっかけとなった場所である。名古屋市緑区有松町の新興住宅地、それは、稔の家から歩いて3、4分だった。あれは、7月も終わろうとしていた深夜だった。いや、正確に言うならば、深夜ではなくて、もう2、3時間で朝日が昇ろうとする早朝である。相変わらず堕落の毎日を過ごしていた稔が、繁華街で飲んだくれ、タクシーを拾い、新興住宅地のわが家にもう数百mという所で下車した時だ。いくら連日とはいえ、父母に気づかれてはまずいと考え、酔い覚ましを兼ねて、そっと家に帰ろうとして下車したのだ。