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第二章 千駄木苦悩の三週間
「すまんな」
「ううん」
聡子の瞳が潤んでいた。少しずつ少しずつ溜まっていた不安や恐れが、彼女の一言で取り除かれたような気がした。
やがて、横たわる男の目を見ながら
「今度、山梨にお見舞いに行くから」
と別れの言葉を残して去っていった。聡子からの救われるような一言に力が湧く気がして、精神的に楽になりその夜は熟睡できた。
この夏、アポロ十一号のアームストロング船長が人類初の月面着陸を果たした。
第三章 石和 別れとリハビリテーション
「おはようございます」の言葉とともに中年の男女が入ってきた。
この朝、山梨の病院から迎えに来るとは聞いていたものの、予想より早く八時を少し過ぎた時間であった。やや細面で目鼻立ちの整った女性が
「甲州中央病院の一の瀬と言います。この人は職員の石原です」
「石原です」
こちらは五十前後の比較的小柄な人であった。
「ありがとうございます。すぐ支度しますから」
父は食器を片付けながら恐縮した態度で話を続けた。
「何時頃に出発んですか」
「準備ができ次第いつでも。暑くなりそうなので早めに出ましょうか」
「分かりました」
約十五分後、看護師さんの詰所で挨拶を済ませ、入退院口に停めてあった白い病院専用の車に仰向けのまま乗せられた。入退院を確認していると思われる係の人が小さな窓から様子を見ていたが、部屋を出て車の横に来てくれ、
「若いから、もっともっと良くなるよ、頑張って」
と声をかけてくれた。
「ありがとうございます」と返事をしたかったが、無言のまま少し笑って応えた。
小樽の病院を去るときはもっと賑やかだったが、この朝は妙に寂しかった。わずか半月の入院で親しくなった人もなく、見送ってくれる人もいない。
声をかけ励ましてくれたおじさんも、去ってゆくかわいそうな一人の若者を哀れむようで素直に感謝する気にはなれなかった。中央自動車道を途中で降り、国道二十号線を甲府に向かって走っていると、勝沼というところで車は止まった。
「もう二十分もすると病院に着くけど、ここで少し休んでいきましょう」そう言いながら車のドアを閉めると看護師さんは家の中へ入っていった。
周りは一面の葡萄畑で、低い棚から熟しきっていない薄緑色の実が無数に垂れ下がっていた。青々とした葉っぱの間から真夏の日差しが漏れていた。
突然、「オハヨウ、オハヨウ」と二度、甲高く機械的な声がした。