「芹生。同窓のお前に言いづらいが呼び捨ては困る。今のわたしは芹生の意識の中にある川島ではない。作家の愛澤一樹だ。こう言っては何だが社会的にも影響のある立場になっている。だから、これからは愛澤先生と呼んでくれ。それとタメ口もだめだ。愛澤企画の社員でいる限りは」
「あ、そうだね。いや、分かりました」
すべてを投げ出してこの場から逃げ出したかった。しかし、それはできない。川島は以前の川島ではない。当代の流行作家「愛澤一樹」なのだ。
「愛澤先生…ありがとうございます」
声を絞り出した。
「それでいい。対外的な体面があるので悪く思わないでくれ。君にはそんな経験がないから理解できないだろうが」
川島は俺を真顔で見つめ、そして微笑んだ。それからスマホで西脇美和を呼び出した。話は終わりましたか、と美和が現れた。
「ああ。これから芹生はめでたく愛澤企画の一員だ。美和くんも編集者の立場として芹生にアドバイスしてくれ」
「分かりました。芹生さん、おめでとうございます」
顔のこわばりが溶けないまま、よろしくお願いします、と返した。美和のコケティシュな笑顔も目に入らなかった。
「それから久連山。愛澤企画の社員としての心得を教えてやるように」
「はい。承知しました」
長い髪の隙間から久連山が俺を見つめる。どうにも得体のしれない男だ。
「では、しばらく執務室にこもる。後はよろしく」
川島は立ち去った。まるで実業家だった。このペントハウスでは川島が社長、というより帝王なのだ。あの若さで誰もが羨(うらや)む名声と富を手にし、これから先は文学史に名を残そうと目論んでいる。
そして俺は、その野心実現のために使われる。すべての矜持を川島に売り払って、家族を守るために。
「芹生さん」
呆然自失を破るように美和が声をかけた。
「何か考えごとでも?」