その金戒光明寺までは、南禅寺を出て三十分ほどだった。平安神宮北側の、仏花や墓石を取り扱う店舗が並ぶ裏通りを抜けると、正面に巨大な高麗門が現れた。その大きさといい、柱や冠木かぶきが銅板でよろうように固められているさまといい、城のものにしか見えないそれが、金戒光明寺の総門だった。

門の左側に立つ案内板には、浄土宗確立のために法然上人が比叡山を下りてこの地に一庵を結んだことが起こりであると寺の縁起が書かれていた。一方、門の右側には一本の石碑が立ち、「会津藩松平肥後守 京都守護職本陣旧跡」と彫られていた。石碑の前で、しばし歴史の引き出しを開けてみた。

幕末の京都というのは、みやびなイメージとは裏腹に、政治の混乱に乗じて出世をもくろむ志士や食い詰め浪人たちが全国から参集跋扈ばっこし、一方で、倒幕勢力による政治工作の舞台として暗殺や謀略が横行する、きわめて物騒なところとなりはてていた。

それに手を焼く江戸幕府は、市中の治安維持と朝廷警固のためにあらたに守護職を設けることとして、白羽の矢を立てたのが会津藩だった。火中の栗を拾うに等しい役回りに会津藩内では反対意見が大勢を占めるも、藩祖である保科正之以来の藩の家訓は徳川家への忠誠であるとして、藩主・松平容保かたもりは家中の反対を押し切ってその難題を引き受ける。

京都を死地と覚悟する決定に主従は声を放って泣いたというが、その会津藩の守護職としての活動拠点がここ金戒光明寺であると石碑は伝えているのである。

そういう歴史の舞台に足を踏み入れるつもりでくぐった門の向こうは、しかし、拍子抜けをしてしまうくらいがらんとしたアスファルトの駐車場になっていた。拝観受付もなければ拝観客らしい人のすがたもなく、あるのは午後のまぶしい日射しと、木陰で涼をとる一台のタクシーだけ。遠いむかし、血気盛んな若武者たちが行き交っていたであろうこの場所に、当時を偲ばせるものは何ひとついまは残されていなかった。