序章 手紙

別れた妻から、元夫である「ぼく」に宛てた手紙

最近、私は以前なら気恥ずかしくてとても口にできなかったことを、臆面もなく口にしています。愛についてです。

むかしソビエトを訪ねたときに知り、以来ずっと探し求めていたチェルヌィシェーフスキイの『何をなすべきか』をようやく入手し、先日やっと読み終えました。

検閲をパスするために小説の形を借りて牢獄のなかから思想を伝えようとしただけあって、ストーリーには辻褄の合わないところも少なからずありますが、かえってというか、だからこそ問題提起するところも多かったのです。最後の解題にこんな一節がありました。

「ここには人を愛するということは相手を所有することではなく、相手の幸福を望むことだという思想がある。」

ふだんならあっさり読み流してしまいそうなこの文章に私はとらえられてしまい、それからというもの、毎日、この一節から発展していろいろと考えさせられています。

私ははたしてこれと同じ意味で人を愛したことがあったでしょうか。あった。あったと言えます。私はあなたとの暮らしをこのうえなく大切に思っていました。ともにたがいを大切に思い合えるように。相手がほんとうにいい状態にあることを願い合えるように。そんな日が来るようにと、私はいつもいつも祈っていました。

いえ、いまだってあなたには幸せであってほしいと祈っています。そうでなければこんな手紙は書きません。完全に無視し、時間の経過とともにあなたがすべてを忘れ去るのを待つこともできましたし、ずるずると会いつづけ、たまには「私だってさびしいのよ」くらい言ってあなたの心を惑わせることだってできたのです。

では、なぜ私はそうしなかったのでしょうか。そんなことをしたところで、あなたはほんとうの意味で幸せにはなれないからです。

では、逆の質問。私ははたして人から愛されたことがあったでしょうか。あります。母からです。私がいい状態にあるときも、私が半狂乱になるほどつらい思いをしているときも、母だけは私を、私自身を愛してくれました。

ほかには? いない。いませんでした。

人を好きになるだけならだれにでもできます。相手のいい面、見たい面だけを見ていればいいからです。だけど、人を愛するということは、だれにでもできることではありません。

なぜなら、愛とは、その人のいい面ばかりでなく悪いところをも、見たいところばかりでなく見たくないところをも目を背けずに受け入れる、そういう勇気や、なによりも忍耐が必要だからです。

相手が喜ぶ顔、笑う顔だけを見たいというのでは恋にすぎません。たとえ相手から疎んじられても、泣き叫ばれても、嫌われても、その人のためならあえて否定し叱責する、それが愛です。

たとえば子どもを叱る母親です。おばあちゃんにはできなくとも、母は子どもを叱ります。だれよりもわが子を愛しているからです。