第三章 逢魔が時:始まっていた戦い
このようなことから、聴き取り調査をしようとして、できなかったということはありえませんでした。
世に隠れて集まっていたわけでもなく、大家族の時代ですので、兄や姉に話がくれば弟や妹に、弟に話がくれば姉や兄につないで、すぐにでも数百数千の人間に当時の生活の状況や、自身や各親の仕事についても確認が取れたのです。
その仕事のなかには、朝鮮半島近代化の秘密に関わるものも多数あったのです。
しかし、私の伯母や父存命中も、おのおの所属していた同期会や、同じ地域で住んでいた引揚げ日本人の集まりを通しても、一度たりとも、資料提供の呼びかけすらありませんでした。
また、さまざまな人の繋がりもあり、アメリカで少女像設置にまつわる「グレンデール裁判」を戦われた目良浩一氏(父稔と同じ昭和8年京城生まれ)は、京城三坂小学校と学校は異なるものの、京城元町小学校の、父の同級生の一部の方たちとは連絡を取り、「従軍慰安婦強制連行問題」に当時関係したり、目撃したりしたものが日本側にいないことを、広く確認されて裁判を起こされていました。
しかし、公共放送であるNHKを含めて、大手のメディアやジャーナリスト、日弁連弁護士、日韓問題の専門家は、しっかりとした調査も行わず、当時、朝鮮半島で生活していた日本人側が、どのように暮らしていたのか、なぜ否定しているのか、詳細を、生の声を、国民に伝えるということをしてくれなかったのです。
わけ知り顔で話す学者や弁護士、ジャーナリストが何を根拠に話しているのかが、当時そこに住んでいた日本人が一番わからないという、前代未聞の、報道という名の悪意ある偽物の情報・フェイクニュースが、繰り返し流されていったのです。
さらに、日本の対朝鮮半島政策の基本になっていた「興亜主義」に触れることすらなく、「従軍慰安婦強制連行」を否定することが、まるで排他的な民族主義的行動であるかのようなレッテル貼りや、戦前の日本を無条件で賛美する目的で行動をしているかのような、決めつけをする報道も続き、世論を誤った方向へ誘導していったのです。