今回同時にデリーに派遣されるのは三家族。もう一家族の山下文子の夫は愛知県からの派遣だった。初めはそれぞれに牽制しあっていたが、美沙は口火を切った。

「はじめまして。片山です。今後ともよろしくお願いします」

「こちらこそ。お仕事は?」

と、よう子が聞き返した。

「中学で教えてます」

「そうなんだ。私は小学校よ」

と、よう子は美沙が教員であるのを喜んだ様子だった。

それを黙ってみている山下文子にも美沙は

「貴方はどちらからいらしたのですか?」

と聞いてみた。

文子はやや硬い表情で

「名古屋です」

と、返事が戻ってきた。

「どうぞ、よろしくお願いします」

と、美沙が言うと

「私は専業主婦ですが、よろしくお願いします」

と、文子は冷ややかに応えた。

二月、東京霞が関で、寒さを忘れた三人の初対面だった。その年の春は肌寒い日が続き、時々春の雪に見舞われるような気候だった。

赴任する教員たちは二月に筑波の研修センターで一週間の研修、家族は一日だけ東京に集められて簡単な指導があり、あとは各自派遣先に応じて調べよ、というものだった。

例えば、オーストラリアとインドとでは簡単なレクチャーで大丈夫な国と全くそうでない国、という分類になる。

妻の美沙の方はあちらでの日常生活について現地に住んでいる人々や外務省に伝のある知人に頼んで直接話を聞いたり、まだインターネットの普及していない時代だったので情報収集にひたすら努力していた。

あまり明るいニュースはなく、「なんでもありますが、粗悪品です」という言葉に集約された。現地の品物や食べ物についての答えに気持ちが塞がり荷物はありとあらゆるものを揃えることになった。

なんでもあるが、日本のものが最高である、というアドバイスに日常の衣類、電気製品、家具、日本食品、文具や楽器まで、全て中古品を探し、家にあるものの多くを船便で送るよう運送会社に頼んでいた。

中古品を選んだのはインドで高い関税をかけられないようにするためであった。