第一章 一年目 出会い
怜子(さとこ)が亡くなってから、三十年の月日が経った。
美沙は埼玉のベッドタウンに住んで同じ年月をすごした。最寄りの駅から住宅地までは小高い山を登るような坂道で、駅前の小さなティルーム「アヴォンリー」で一息入れてから帰路についていた。
定年後に夫妻で開いたというその喫茶店は『赤毛のアン』の小説に出てくるような佇まいで美沙はそこで怜子と過ごしたインドのデリー時代をよく思い起こしていた。
怜子はカナダのモンゴメリーの『赤毛のアン』を愛読書としていて、結婚してから建てた家を、写真集で見たカナダのプリンスエドワード島の『アンの家』を模して屋根は緑色のスレートで白壁の可愛い平屋にしたのだった。怜子と美沙はそのカナダとは遠く離れたインドのデリーで出会った。
たった三年という短い付き合いであったが、二人の気持ちをいち早く引き寄せるのに大きな役割を果たしたもの、それが互いの愛読書『赤毛のアン』シリーズだった。
主人公のアンは孤児院から、男の子を希望していた老兄妹マシューとマリラの住む家に送り込まれた。畑作の労働力として男子を欲しがっていたので、華奢な女の子のアンを見て落胆し、一度は孤児院に戻そうとしたが、アンの心情を察したマシューとマリラの兄妹は彼女を引き取ることに決め、共に新しい人生を切り拓いていくという物語だ。誰もが読んでいるようでいて、十冊以上にも及ぶこの本のシリーズを読み耽ったという共通点は初対面の怜子と美沙の距離をぐっと引き寄せるのに充分だった。
それは、デリーで出会ってすぐに、互いの家を訪問しあうという、異国ならではの付き合い方によるものだった。怜子はすでにこのとき、癌に冒されていて、一時帰国した日本で手術し、再びこのデリーの暮らしに戻り、療養していたのだった。