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インド派遣
米は、真空パックの五キロ入りの袋を十袋、赤飯はソーラー米という新しい形の米をさがし、味噌も信州の味噌屋から質の良いもので長持ちしそうなものを取り寄せた。
醤油にいたっては缶入りの高級料亭が使うような品を二十缶。よう子が
「日本料理屋ができるわね」
と、揶揄したほどだ。しかし、
「とらやの羊羹は赤道を越えても腐らないそうよ」
などとまことしやかに話す母を見て、涙がこぼれそうになった。有難かったのだ。
久雄は、孫のメイ子を思う親たちの気持ちに申し訳なさでいっぱいであった。一日が十二時間しかないような速さで過ぎていく、そのくらい分刻みで仕事をこなした二ヶ月であった。
忘れ物はしたくない、何しろ送料が高い場所だったし、この荷物とて無事に届くという確証はないのだ。
「インドの環境を深く考えすぎるのはよそう。日本人学校へ通う子供たちも百人に近い人数だと聞いている。皆元気で過ごしているのだ、メイ子もきっとそこで成長してくれるだろう。私はこの母娘をしっかりと守ってやる」
そう、決意する久雄だった。
インドへ出発
その年の四月四日、成田空港に、当時は箱崎から入った。
平田久雄にとっては初めての海外渡航だった。片山夫妻を始め、名古屋の山下一家、そして途中のトランジットのバンコクまではスリランカに派遣される教員家族がいた。
それぞれに見送りの人々があって、和やかに談笑している。久雄の妻よう子は白いワンピースを着て清楚にしていたが表情は少し暗い。しばしの別れを実家の両親と惜しんでいるのだ。
片山家では、明るい美沙の声がしていたが、最後に「お母さん、お元気で」と、姑信子に手を差し延べながら言った声はさすがに涙声になっていた。
「行ってらっしゃい」という、様々なトーンの声を背に受けて、ガラス越しの見送りの人々に大きく手を振って、インド方面に渡航する一団は出国ゲートに向かった。
ベルトコンベアーのような歩く歩道に乗った美沙は、先ほどの哀しい別れが、少しずつふっきれているのを感じていた。
「行ってまいります」
新しい人生のスタートラインにたった美沙が自身にむけて発した言葉だった。
一口に海外派遣といっても、それは国によって全く印象も心構えも異なるのだが、単に東南アジアというのと、インドというのとでもまたその感触は違ったものになる。