一年遅れでデリーに着任した美沙の家にはまだソファの三点セットとダイニングテーブルが借家の広いリビングにぽつんとおかれているだけであった。作り付けの小さな本棚に置かれた、懐かしい日本の書籍が少しだけそこに異彩を放っていた。その中の一冊が村岡花子氏訳の『アンの夢の家』だった。
「いいかしら?」と断って、怜子はその本を手にして、
「アンシリーズではどれが好きなの?」と美沙に聞くと、
「私はやはり『アンの夢の家』です」と即座に答えた。
「私は最後の『アンの娘リラ』かしらね」と怜子は答えた。
美沙も「私も、それはまた別の意味で気に入っています」そう続けた。
「別の意味?」
「はい、私は子供がいないものですから、アンの子沢山な様子がうらやましいのです」
そういう美沙の言葉は怜子の心に切なく響いた。
「私はね、子供はもう諦めたのよ。そういう思いに至るまでの葛藤はもうないけれど、子供のいない者として、貴方には少しずつ話しておきたい気がするわ」
美沙は少し後悔した。単刀直入に子供のことを話してしまった自分はもしかしたら怜子に対し、とても失礼な発言をしてしまったのかもしれないと。
しかし怜子は
「私、貴方と仲良しになれそうよ。デリーの人間関係は予想以上に大変なことがあるかもしれないけれど、私でよかったらなんでも相談してくださいね」と笑顔で言った。
その怜子の言葉は、デリーに着任したばかりの美沙にとって大きな支えになった。出会って、三日目のことだった。思い出はふと蘇り、今は亡きその人がその場にいるように語り掛けてくることがある。美沙はデリーの思い出を語るとき、必ず怜子が傍らにいて、頷いたり笑ったりするのを感じていた。