一通の手紙

「実は、学校にいる頃もあまりはっきりしませんでした。でも、家の仕事よりもっと自分として社会に貢献できるものは何かあるのではないかとは思いました。

当時、私は大学に進みたいと思いました。もう少し学校に通って、学校の勉強やその他のいろいろな勉強をするうちに、何が自分のすべきことかもう少しはっきりしてくるように思ったのです。でも、人生設計のために進学したいとは言えず、もっと勉強がしたいというような単純な理由では父が許してくれるはずもありませんでした」

「謙一さんは立派です。将来のことをそこまでちゃんと考えている人はそんなにいないと思います。私なんか何も考えずに、ただ毎日家の手伝いをしているだけですし……」

何とも情けない話だと思いながら語ったのに、多恵子は何でも好意的に解釈してくれる。

「いいえ。それは買いかぶりというものです。男なのだから、もっとはっきりときちっとした考えを持たなくてはいけないのだと思います。何故こんな話になったのかな。話題を変えましょう」

杉井は、喫茶店の白い壁を背に、時に多恵子から貰ったチェリーをくゆらせながら、多恵子との会話を楽しんだ。名古屋の食べ物や気候の話、杉井の得意な剣道の話、多恵子の稽古ごとの話など話題は尽きなかった。

あっという間に三時間半が過ぎ、二人は喫茶店の前で別れを告げた。かくして、杉井の初めてのデイトは無事終了した。多恵子と定期的に会いながら、杉井は、時々佐知子のことを考えた。

佐知子は初めて手紙をくれて以来、マメに便りをしてきた。静岡の様子、昔の同級生の近況など丁寧に報告してくれていた。杉井も返事は書いたが、多恵子とのことには一切言及しなかった。

静岡にいれば頻繁に会っていたはずの佐知子という女性がいながら、名古屋の地ではまた別の女性である多恵子と付き合っていることに、杉井は罪悪感に似たものを覚えた。

ただ、佐知子にとって自分が特別な存在となっているのならともかく、それが幼なじみという領域を越えていないのであるとすれば、それほど気にすることでもないのかなと思った。

一方、多恵子に対しても、このまま逢瀬を繰り返していて良いのだろうかと時々悩む瞬間があった。佐知子の場合は、近所でもあり、学校の同級生でもあったから、今までのような付き合いに何の不自然さもない。

しかし、多恵子の場合は結婚でもしない限りいずれは別れる相手であり、結婚など考えられない杉井にとっては、客観的に見れば、束の間の遊びの相手であった。

しかし、多恵子に会って、その控え目で慎ましい態度を見ると非常にいとしくも感じ、これを遊びと評価されるのは苦痛極まりなかった。だからと言って、具体的な解決となるような対応がある訳でもなく、杉井は何度考えても自分の心の矛盾から脱却できなかった。