ポスト・コロナ社会のリスクと正義

アメリカのSF小説家、フィリップ・K・ディックによる1956年の短編小説「マイノリティ・レポート」は、スティーブン・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演で2002年に映画化されたのでご存知の方も多いのではないでしょうか。ここで描かれている2054年のアメリカでは、全ての殺人事件を事前に予知する殺人予知システムが実現し殺人事件の発生率は0%になっています。このシステムが殺人を予知すると、予防的治安維持機能を遂行する犯罪予防局によって、犯人(の予定者)は犯罪の発生前に逮捕され投獄される仕組みです。

さて、私たちの現実の問題として、犯罪の可能性がある(高い)という理由での処罰は正当なものなのでしょうか。

刑法学の分野では長年にわたり、違法とは何か、について「法益侵害説」と「規範違反説」の2つの軸が議論の中心となってきました。私なりにざっくりとまとめると、「法益侵害説」とは他人に怪我をさせたとか、利益を損ねたという「結果」を犯罪の本質とする考え方です。一方、「規範違反説」とは社会的に守るべきルールとしての法に背く「経過」を犯罪の本質とする考え方です。

「規範違反説」では、誰にも損害を与えていない状態でも犯罪にあたります。この先の考え方はさまざまあるようですが、規範に違反するとは、他者を害する「可能性」の保持を選択したから、という解釈があります。交通法規における信号無視や飲酒運転が、事故を起こしていなくても処罰の対象となるのはこのためです。「規範違反説」の問題は、「道徳」の取り扱いにあると言われています。一方で、ルールを守らない個体を、本能的に群から排除する行動というのは動物的で本能的なものでもあります。「道徳的な」断罪や追及の行為に快感を得ているしか思えない言動をとる人がいるのはそのためなのだと私は考えています。そして「規範違反説」は刑法論の歴史においてナチスドイツ下で精緻化せいちかされた経緯があります。

冒頭の「マイノリティ・レポート」の世界は、結果ではなく犯罪の可能性を消滅させる志向性をとことん突き詰めた、極限的「規範違反説」的社会だといえます。映画の中の「規範違反説」的社会の息苦しさや非人間性が不愉快なものであることに賛同する人は多いと思いますが、現実社会では「規範違反説」的社会を強く求める人が多数を占めつつあるのではないでしょうか。

「規範違反説」的な論の多くは正論であり、困ったことに反論しづらいものですが、「規範違反説」的な言動はしばしば攻撃的で、私は動物的な印象を受けます。新型コロナウィルス禍の只中に、パチンコ店に詰めかける人々やマスクをせずに出歩く人への自粛警察的な実力行使は、「規範違反説」的な本能に沿ったものと言えるのではないでしょうか。

私たちは、身の危険を強く意識した時「規範違反説」に大きく傾く性向を備えているのです。