これらは人間に普遍的なことなので、私とあなたは一体では無いとか、お腹が減った・美味しいがどういう状態なのか、ということについては世界共通で話が通じる。
しかしながら、生命維持に最低限必要な範囲を超えると、世界像は人によってかなり違うものになる。例えば、幽霊。周囲の人が幽霊の実在を信じている場合、その人の世界には幽霊がいるかもしれない。
一方、周囲の人が幽霊を全く信じず、テレビや本に出てくる幽霊は作り物だとして接してきている場合、その人にとって幽霊は単なる創作キャラクターである。
墓地は、幽霊を信じない人にとって感覚的には公園と大差無いが、信じる人にとっては畏怖を覚える場所だろう。なお、夢が現実(日常の世界像)ではないとわかるのは、編み込まれたパターンから逸脱しているから。
だから、現実に近いよく出来た夢の記憶は、現実と区別がつかなくなることもありうる。さらに、同じ夢を何回も見て記憶している場合、現実との境界は曖昧になるだろう。
子供の頃、数メートル程度低くスゥ~と飛べるような夢をよく見た。
何となくちょっとは飛べるような気がしていた。また、自分が昨日までの自分と同じ自分だ(誰かと入れ替わっていない)とわかるのは、過去編み込まれたパターンが、継続して更新・利用できるから。
もし、朝起きて鏡を見て、知らない人がこっちを向いていたら、ひどく混乱する。言うまでも無いが、言語を使うことで、言語に対応した物事が世界像に組み込まれる。責任とか公平といった概念も世界像に加わる。
主語述語がありストーリーを紡ぐことのできる言語によって、世界像は画期的に広がる。ある言葉のまわりで編み込まれてきた物事は、人によって違う。
なので、同じ言葉(例えば、幽霊)でも、その持つ意味・感じは、人により様々。全く意図していないのに、相手が傷ついたり、逆に喜んだり、コミュニケーションには多かれ少なかれ誤解が付きものだ。