京都墓情 二〇一七年十二月:【第二日目】京福電鉄沿線から東寺
「雲龍図」の興奮の余韻に浸りながら、等持院を訪れる。等持院は、室町幕府の足利将軍家の菩提寺である。応仁の乱等の戦乱で被害にあったが、豊臣秀吉が、子の秀頼に建て直させたほど、この寺は重んじられていたそうである。
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僕が、どうしてもこの寺を参拝したかった理由は、歴代足利将軍の木像が安置されているからである。中世の似絵は、リアリティに欠けるので、木像で将軍たちがどのような顔立ちをしていたのか確かめたかったのだ。
特に、足利尊氏の顔を確かめたかった。というのも、僕が尊氏で思い浮かぶのは、日本史の教科書に載っていた、馬上で太刀を肩に担いだざんばら髪というかショートボブの荒武者だが、この肖像画は尊氏本人ではないとの有力な説が、昨今出ているからだ。
とにかく、尊氏はどんな顔立ちをしていたのだと勇躍訪れた等持院だが、改修工事のため木像を安置している霊光殿は拝観停止であった。不覚。事前に確認するといった基本を怠ったために無駄足となってしまった。
しかし、庭園は拝観可能。せめて庭園だけでもと園内を散策する。この幽邃(ゆうすい)な庭園は、夢窓疎石の作だと伝えられている。夢窓疎石は、尊氏に後醍醐天皇の菩提を弔うために天竜寺の建立を勧めた僧である。
庭園の中に、尊氏の墓である宝筐印塔(ほうきょういんとう)を発見。意外に小さい。幕府の創始者にしては小さい。惜しげもなく、自分の物を人に分け与えていたとの逸話がある尊氏だけにこのサイズの墓も頷けるものがある。
さて、この時から二年後、僕は足利将軍の木像を見る機会に恵まれた。しかも、地元の福岡で。というのも、九州国立博物館で室町将軍展があり、足利将軍の木像が出展されていたのだ。
敗者復活戦に臨む心境で、勇躍九州国立博物館に赴いた。室町幕府はこんなに人気があるのかというほど、来館者で溢れている。第一級の絵画から、文献資料、将軍ゆかりの「御物」まで展示されてあったが、そんなものどうでもいい、早く木像が見たいと気が逸(はや)る。
そして、ついに尊氏と対面。はじめましての挨拶もそこそこに、顔をじっくり観察。ふっくらとして円満な顔立ちには、優柔不断さが見える。僕が、イメージする尊氏は、荒武者の肖像画より、この木像の方が近い。あの荒武者は尊氏ではないとの説に僕は一票を投じる。
余談だが、将軍たちの木像で、圧倒的な存在感を見せていたのは三代将軍の義満である。木像ですら強烈な覇気を放っている。義満が皇位簒奪(さんだつ)を考えていたのではないかと僕も疑いを持つには十分であった。