第三章 古代からの使者 II 出生の謎(実名の由来)
「わかりました。では簡単に説明しましょう。ただし、簡単に、ですよ。これをくわしくやっていけば、一日かかってしまいますからね」
「はい、それでけっこうです。よろしくお願いします」
「まず一番目の名前の謎ですね。聖徳太子という名前が一番よく知られていますが、じつはこの名前はほんとうの名ではないんです。『日本書紀』には聖徳太子という名は出てきません。彼についての話が最初に書かれたのは『日本書紀』だと考えられていますが、その『日本書紀』に出てこないのですから、聖徳太子というのは、後世になってつけられた名前だということになります」
「えっ、聖徳太子って、ほんとうの名前じゃないんですか」まゆみが驚いて叫んだ。
「そうです。わたしたちはみんな聖徳太子と教わったと思いますが、この名は奈良時代以降に作られたものだろうと考えられています」
「じゃあ、ほんとうの名前はなんですか」まゆみが聞いた。
「ほんとうの名前─ つまり実名ということですね。実名というのは、実際によばれていた名前のことをいうのですが、彼の場合は、厩戸(うまやと)というのが実名だと考えられています」
「ああ、厩戸皇子(うまやどのおうじ)ですね」まゆみがうれしそうにいった。
「そうです。ただし皇子と書いて、オウジと読むのではなく、当時はミコと読んでいました。でもまあそれはいいでしょう。問題はなぜそんな名がつけられたかという理由です。実名は生まれ育った場所に由来していることがほとんどなんですね。あるいは、幼いころに養育された氏族の名で呼ばれることもあります」
「大阪のおばあちゃんとか、名古屋のおじいさんという呼び方ですね」沙也香がいった。
「そうです。実名には生まれ育った環境を表すものが含まれていると考えられています。その名前から、彼がどこで生まれ、どこで育ったのか、それを探そうとしても[厩戸]に相当する地名が見つからないのですよ。これが名前の謎の一つです」
「ああ、そういうことですか。わかりました」
沙也香はうなずいた。
「でも、なぜこれだけ多くの名が発生したのか、という意味は?」
「『日本書紀』には数えきれないほど多くの人名が出てきますが、その中で、この人物はなになにという別名でもよばれていたと書かれていることがあります。そう書かれている人物でも、多くて三通り、ふつうは二通りの名しか書かれていません。彼のように十二種類にもおよぶ名前を持つ例はほかにありません。しかもそれはずっとあとになってつけられた名前がほとんどなのです。なぜこれほど多くの名が発生したのかという意味は、なぜ後世の人がそんな名前を作ったのか、なぜ作る必要があったのか、ということですね」
「ありがとうございました。よくわかりました」沙也香は小さく頭を下げた。