「おたがいのためにしばらく距離を置いてみないか」
そう言いながら、当然のようにぼくのほうが3LDKのマンションに残った。
結婚二年目の梅雨どきのことで、典子の別居先は、除湿器をたえずまわしておかないと畳にかびが生えてしまうような日当たりの悪いアパートの一階にあった。玄関を入るとすぐに板張りの台所があり、三畳ほどの納戸がつづき、その向こうが暗い庭に面した六畳の和室という間取りだった。典子は納戸にベッドを置いていたが、そのベッドというのはマンション寝室のダブルベッドの下に付属していたエキストラベッドを運び入れたもので、スプリングのない硬い小さなベッドだった。
望まぬ別居だったはずなのに、引っ越し当日、すべての荷物を運び終えると、たまには遊びにおいでよと典子は気丈な笑顔をぼくに見せた。もちろん、それはぼくに強がっていただけで、その晩、初めての部屋でたったひとりの夜を迎えた典子が心細くなかったはずはなく、悔しくなかったはずはなく、からだを硬い冷たいベッドに押し込んだときにはいかなる感情の渦に巻きこまれたことだろう。どれほど大きな涙の海をベッドに広げたことだろう。
そんな環境に突き落としておきながら、半年後、離れて暮らすのは不自然だからと典子をふたたびマンションに引き戻したのはぼくだった。ぼくは、ぼくにすがるしかない典子をそんなふうに翻弄した。
離婚という言葉を初めて口にしたのもぼくからだ。ふたりの気持ちが離れてしまったら別れるしかないじゃないかと当てつけのように言ったのだ。踏み切る覚悟などなかったくせに。典子を困らせたいというただそれだけの理由で。いとも簡単に、あっさりと。だが、それだけは口が裂けても言ってはいけない言葉だった。なぜなら、その言葉がぼくの口から離れたときに、典子の耳に届いたときに、それまで典子のなかで典子を支えていたものがぽきりと折れてしまったからだ。それは同時に、ふたりの日常を支えるたった一本の柱を失った瞬間でもあった。そして、ひとたび命を与えられた離婚という言葉が独り歩きするのを、ぼくたちはもう止めることができなかった。その言葉に牽かれるように、そして、その言葉に牽かれるままに、後もどりできないレールの上をぼくたちの日常は音もなくすべり落ちていったのだ――。