まさか、あの清躬くん?
「あの、清躬(きよみ)さんの御実家では……」
相手はまたそこで言い淀んだ。しかし、橘子はこの短いフレーズにいま初めて耳になじみのある名前をきいた。
「きよみ、さん?」
今きいた名前をくりかえしながら、なつかしい想い出が胸に蘇よみがえるのをおぼえる。きょう突然訪ねてきた見知らぬ人からその名前をきくとは、おもってもみなかった。しかも、意味のわからない言葉の連続で、突然そんな昔なじみの名前が出てくるなんて。
檍原の表札で清躬さんとは……橘子にとってその名前は、「かれ」しかなかった。
「え、ひょっとして、まさか、あの清躬くん?」
「清躬、くん?」
棟方さんは橘子の言葉尻が気になるようにくりかえした。
「くんて、あの─」
それから先はまた言葉が続かなかった。唯、おおきな眼を見開いて橘子のほうを見るばかりだ。橘子も負けじとおおきく眼を瞠みはる。まだ鏡の作用が続いているようだ。表情はそうなってしまうが、言葉は違う。
「念のためにききますけど、檍原清躬くんのことを言ってるんですよね?」
今度は苗字もつけて、はっきりさせる。この名前の組み合わせは本人以外にはまずないはず。
「え、ええ、檍原清躬さんです」
棟方さんがゆっくりうなづきながら、はっきり言う。
「やっぱり、清躬くん!」
橘子はおもわず叫んだ。一気に時を遡さかのぼって十年近い昔の清躬少年の姿が眼前にきた。切ないくらいのなつかしさに胸が衝つかれる。
「清躬くん─」
名前をくりかえし呟つぶやかずにいない。今、眼の前にしたから、呼びかけるように。
「え、あの─」
橘子の反応はおもいもかけなかったことのようで、相手を一層混乱させたようだ。
「清躬くんと呼んでいらっしゃいますけれど─」
棟方さんが少しおどおどした様子できく。
「あの、私、とんだ失礼をしていたら大變(たいへん)申しわけないですけど─あなたは清躬さんのお身内ではないんでしょうか?」
あらたまった調子で棟方さんが尋ねた。
「妹でも姉でもないし、身内でもないわ」
橘子ははっきり言った。
「清躬くんは私の小学校時代のお友達」
「お友達?」
橘子の答えは相手にとって声を裏がえらせる程に意想外のようだった。そういう反応こそ橘子には意外だ。
「あの、苗字はおなじだけど、私と清躬くんとはまったく他人ですよ。第一、私、一人っ子で、きょうだいなんていませんし」
橘子は念のため断わった。
「で、まさか清躬くんの家うちだとおもって、ここを訪ねてこられたの?」
「まさか、って─」
そんなことあるはずないでしょう、という橘子の質問に、棟方さんこそ不可解におもっている様子に見えた。
急に持っていた大きめのかばんのなかを探って、かの女はなにかを出してきた。一枚の紙切れのようだった。