久しぶりの快晴の中、私は歌を唄う

世界遺産である富岡製糸場ができる二年前、前橋がまだ前橋藩だった明治三年、すでにイタリアから導入された器械式製糸工場が操業を始めていた。それが「藩営前橋製糸場」であった。その全盛期には五〇〇軒ほどの製糸工場が操業していて、前橋は日本で一、二を争う生糸の集まる街であった。

そのためか街には数多くの芸者衆がいた。祖母がまだ若かったころ、派手好みでもあったため、その芸者衆とも付き合いがあって、よく自宅に招いてはその清水を沸かして玉露を味わっていたという。また近くに住む仲間を集めてはささやかな茶会を楽しんだりしていたことなど、彼女は自慢げに話していた。

そんな自然の中で私は女の子でありながら近くに住んでいる遊び友達を集めては一緒に駆けずりまわり、歌を唄い、時には木登りまでして祖母や母からあきれられたこともあった。そして忘れられない悲しいできごとも。

さて、時は流れて私の彷徨の時代も過ぎようとする中、天気のいい日にはよく庭に出て、いつもながら歌を唄ったりしていた。今、五月のさわやかな季節もすでに終わって、例年のとおり、この地域にも雨季がやってきた。その長雨の続く日々には正直うんざりしていた。