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生きる意味について

­それから十年後、天狗岩用水の大規模改修工事は無事終了して、ようやく安定した農業用水の供給が実現したのである。

それは全く新しい姿となった。しかしそれに伴って、周囲の環境も徐々に整備されて、西岸の坂を下った低地は埋め土をして、瀟洒な建物が立ち­並ぶ住宅地へと変貌していった。

当然のことながら、用水を取り巻くこの辺りの自然も同じであった。子供のころ見た裏庭の湧き水は涸れて、薬草ももう見ることはできなくなった。

用水の中はもはや魚たちの棲むところではなかった。そして発電所の遺跡も水車小屋も整理されて無くなった。唯一、煉瓦積みの発電所の取水口だけが先人の功績を称える記念碑と共に残っただけだった。

更に、用水の緩やかに落ちてゆく滝は、形を変えて長い急斜面の上をすべる急流に代わった。それによって擦り切れるような鋭い高音が堰に重く衝突し続ける騒音は更に大きく耳に響く。

そして新しく散歩道ができて人々の行き交う姿が見受けられるようになったけれど、なぜか昔を知る人にはめったに会うことがなくなった。また野の花や、のどかでゆったりとした水の流れと共に、周りの自然の野原を目にすることはもはやない。

このようにして天狗岩用水ができて以来、最大規模の改修工事が加えられて、今ではほぼその機能は完璧だと評価され、それまでの長い間、さまざまな自然災害等による決壊や浸水から免れることはできず、農業用水を確保するために新たな近代的改修工事が不可欠になることは当然の成り行きだった。

だがそれはあの美しい自然の姿と命を犠牲にしなければ全うできないことを意味していた。また、それは時の流れに抗しがたい宿命だとしか言えないかもしれないが、当時を知る私たちは本当に心が痛む。­

崖の下を流れる天狗岩用水の水は依然として一筋の谷間の底を見るようだ。あれから更に数十年が過ぎた今もなお、春三月、今年もこの時期になると、どこにいるのか目には見えないが、茂みの枝から鶯のなき声が鋭く崖底に響き渡る。

その時、遥か昔、あの自然の中にいた自分自身のことが思い起こされる。時の移り変わりとともに様々な事があったが、いま近くに目をやれば、我が家の庭は依然として昔のまま、生き生きとした緑の自然に恵まれている。