「この頃、フィレンツェ、ヴェネツィアと、両方の画廊の経営が酷い不調続きで、殆ど利益の出ない日が続いていてね、わずかなこととはいえフェラーラに対する支援も厳しくなっていた。絵の世界といえども才能だけでは駄目だ。特にフェラーラのような絵は、特別な売り出し方や強力な後ろ盾が必要だと、私は強く主張したんだ。良い絵であれば、最後には必ず認められると言い張ってきたフェラーラだったが、このときは死んでから有名になるのでは意味がないし、などとも言って、結局、人脈や金も必要だと分かったようだった。こちらとしてもフェラーラを売り出すことが、ギャラリー・エステの存亡に関わる経営上の重点課題にもなっていたからね」
「画廊の経営ってそんなものですか?」
「そうさ、いつも危うさでいっぱい。常連の顧客かスター画家でも持たなければ実際厳しい。そんな折、私は久しぶりにロンドンへ出張で、ロイドのヴォーン会長に会った。ご承知のように、当時、彼はロイドの全部門を実質的に掌握していてね、ロンドン美術界の権力の中枢を担っていた。ここだけの話だが、彼が支援すれば評価が上がって稼げる画家にもなれた。だが、ひとたび彼の機嫌を損ねれば、たとえ能力があったとしても、売れない画家のままで終わってしまうと、巷で囁かれる存在になっていた。会長にそう言うと、彼は驚いたような顔をした。『コジモ、そんなことはあり得ない。実力だけがものをいう世界だ』たとえ彼自身望まなくとも、多くの取り巻きに囲まれ、もはやそういう存在になっている自分の位置は良くわかっていたと思うよ。もしそうでなければ、この話などとても実現しなかったからね」
※本記事は、2020年8月刊行の書籍『緋色を背景にする女の肖像』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商