鹿児島まで行ったのに…

一方、施工班の募集はなかなか進みませんでした。東京で求人することの難しさを嫌というほど感じました。新宿の職業安定所(現在のハローワーク)に行き、そこから出てくる青年一人ひとりに話しかけ、こんな仕事をしませんかと説明するのですが、足を止めて話を聞いてくれる人はいませんでした。

そのころ、職業安定所の役人体質にもどかしさを感じていた求人業界に殴り込みをかけるように、リクルートが登場していました。何とか求人したいと思い、当時、日の出の勢いのリクルート本社を訪ねましたが、掲載価格があまりにも高いのに驚き、そっと手を引っ込めました。

「今に見ておれリクルート」との思いで、高いビルを見上げて退散しました。

足が腫れるほど、東京中を歩き、人を探し回りました。

後に一九八八(昭和六十三)年、リクルート事件が起こります。リクルートコスモスの未公開株が店頭公開前に自民党大物政治家や財界人に譲渡されていたことが発覚し、大きな社会問題になりました(現在では、息子がリクルート社を上手に活用し、会社説明会や人材の募集をしています)。

求人詐欺にも遭いました。鹿児島の求人情報会社から、「東京で働きたいという鹿児島の若い人を採用しませんか」との連絡がありました。「鹿児島で面接会場を設定して、求職者を集めます」というのです。東京で求人することの難しさを感じていましたので、渡りに船だと思い、その求人会社にそれなりの金額を払い、鹿児島まで行って面接をしました。会場もセットされ、五、六人の青年が来ていました。履歴書を見ながら一人ひとり面接をし、二人ほど採用したい旨を伝えました。面接に来た人には、その場で全員に日当と旅費を払いました。その後、採用通知を出したのですが、全くの音沙汰なしです。後で気づいたことですが、すべてがサクラ(偽客)だったのです。

それから知人の紹介などで二人採用ができ、施工班が整ったのですが、関山部長より「うちも狭くなったので外に仲宗根さんの事務所を出しなさい」と言われました。

当時、ユニットバスや浴槽の補修工事があり、施工班はTOTO茅ケ崎工場に補修の講習を受けに行ったり、担当者と一緒に工事に行ったりしていましたので、虎ノ門と茅ケ崎工場の中間である神奈川県戸塚区に事務所を借りました。事務所といっても、民家を借りただけのもので、黒川君は家族とともに、そこに住むようになりました。