第一章 新兵

初年兵教育

この乗馬訓練の弊害は、神風に意地悪されて屈辱的な思いをすることだけではなかった。

連日馬に乗っていると、太腿の内側から臀部にかけての部分が擦れて粘液が出てくる。その結果、股下が密着して脱ごうとすると痛くて脱げず、杉井は仕方なく水槽に尻をつけて濡らして脱いだ。

いつになったらまともな乗馬ができるようになるのだろうと思いつつ、一月の寒い朝、凍てつく水で神風の手入れをしていると、濃い朝霧の中に市庁舎の時計台がぼんやりと見えた。針は六時を指していた。

杉井は、流行歌「裏町人生」の「霧の深さに隠れて泣いた……」という歌詞を思い出しながら、神風に語りかけた。

「頼むから俺の言うことを聞いてくれよ」
「馬のお前にも、人間の気持ちは分かるだろ」
「俺と一緒に上手に走った方がお前も気持ちが良いだろ」

神風はきょとんとした目で杉井を見ていた。こんなことを言っても分かる訳はないなと諦観しつつ、一方で、相当ないたずらっ子だが可愛い奴だとふと情が湧いた。

噛みつく馬と言われているが、俺を噛んだことは一度も無いし、ひょっとするとこいつは俺のことを好きなのかも知れないとも思った。

乗馬訓練が始まって二週間ほど経つと、事態は急速に好転した。まず神風の対応である。杉井の世話に慣れてきたせいか、厩舎に入って行くと、喜んで鼻をすりつけてくる。

蹄を洗う時も、杉井がやりやすいように軽く脚を上げるようになり、体重をかけてくることもしなくなった。走り方は相変わらず他の馬より多少荒っぽかったが、当初のようにわざと尻を振るというようなこともなくなった。