第一部 生涯と事蹟
第二章 音楽学校時代
一 東京音楽学校
明治五年(一八七二)九月、学制が発布されてわが国の近代教育制度が発足した。
音楽について文部省は小学教科において、「唱歌當分之ヲ缺ク」とし中学教科にあっても「奏楽當分缺ク」と規定したが、その理由は小中学用の音楽教材が存在せず、音楽指導のできる教師もいないことにあった。(※1)
明治十二年(一八七九)九月二十九日官令第四十号により前記学制が廃され教育令が布告されるに及び「当分之ヲ欠ク」とされていた小学校唱歌が、状況に応じて授業に取り入れられることになる。
政府は同年十月七日文部省内に音楽取調掛を設置し、東京師範学校長伊沢修二(一八五一〜一九一七)を御用掛に任命している。
伊沢は信州高遠藩の出身で藩兵鼓手となり慶応三年(一八六七)藩主に従い江戸に出て明治維新後、藩貢進生として大学南校で学び、文部省命により「師範学科取調べノ為」三年間米国に留学、明治十一年(一八七八)に帰国して東京師範学校に就任した人である。
発足当時(明治十三年三月)の音楽取調掛の建物は文部省雇外国人教師モルレの旧居館を改築したもので、東京府北豊嶋郡本郷区の文部省用地内(現在の東京大学構内)にあり木造瓦葺平屋で、鎧張りペンキ塗りの洋館であった。玄関右手には講議室、左手はピアノ練習室で十数台のスクェアピアノ(四脚ピアノ)など和洋楽器が備えられていた。(※2)
音楽取調掛が明治十二年十月三十日文部卿寺島宗則(一八三四〜九三)に提出した上申書には「東西二洋ノ音楽ヲ折衷シテ新曲ヲ作ル事」「将来国学ヲ興スベキ人物ヲ養成スル事」「諸学校ニ音楽ヲ実施スル事」が記され、ここにおいて前記の学制や教育令で得られなかった音楽教育の理念が具現化し、後の東京音楽学校へと引き継がることになる。