第一部 八荘源

第一章 とんぼ

日が暮れようとしていた。巡査は、部屋を眺めた。何の変哲もない居間である。

すすけた壁に、「若天機不熟事不成」という手書きの書が掛けてあった。これはどういう意味ですか、とやや無遠慮に聞いた巡査に聡は苦笑した。

「いや、お粗末な私の趣味で」と言ってから、何事も天の理というものがあり、物事が熟してくる時期がある、その時期がいたるまでは、いくら人々が苦労しても、物事は決して成功しない、それまでじっと待つ心構えが肝心だという意味なのだと説明した。

聡は説明しながら、今の自分の心境と照らし合わせて皮肉を感じた。銀行の営業マンをしていたときは、いくら努力しても、苦しい思いをしても、どうにもうまくいかないときがあった。

かと思うと、努力らしい努力もしないのに、すっとうまくいってしまうこともあった。そうした時期に自分への戒めもこめて、ひそかにしたためて山荘に飾っておいた書である。

だが、娘夫婦がいなくなったというのに、天機熟さずんば、などと言って鷹揚に構えていられるものではない。