プロローグ 

昨日、私は知人に会いに都内まで出かけてきた。渋谷にちょっと洒落た店があるので、たまには一緒に食事でもしないかと誘ったら、喜んでやってきたわけだ。

相手は実は女性なのだが、もう50歳を過ぎた同士で、艶めいた話があったわけではない。だが、お互いに年輪を重ねてしまったので、つい思い出話に花が咲いた。

食事が終わったころ、彼女は綴じた原稿らしきものを取り出した。

「わたしが書いたんだけれど」と彼女は控えめに言った。私はぱらぱらページを繰った。
「小説?」
「違うの。小説仕立てだけれど。でも全部実録よ」
「まさか?」思わず私は彼女の顔を見た。

私たちの時代にはいろいろなことがあった。その多くは忘れ去られた。思い出したくない人もいるだろう。私もむしろ忘れたい者の一人だ。だが、彼女のものいいには真剣なものが感じられた。

「香奈さんはお元気?」と私は違う事を聞いた。彼女は少し考えた。

「わたしはね」彼女は私の問いをはぐらかすかのように言った。「考えてるの。もしかしたら、いま私たちが食事をしているここは、国木田独歩が『武蔵野』を書いた渋谷村の茅屋の真上くらいじゃないかって」

「奇想天外だな。渋谷村か」と私は答えた。「よくそんなことを思いつくもんだね」

「香奈は『武蔵野』が好きだからね」と相手は答えた。「独歩は不思議な人だったよ。友達が死んだとき、彼の頭に真っ先に浮かんだのは自分のエゴのことだった。そのことで自分を責めて、自分は悪魔じゃないかって思うの。だから、おそらくは自分と同じ文学の友人はいくらいても孤独なわけ」

私は黙って聞いていた。

「だから、『武蔵野』って、おそらくは贖罪の文学なのよ」
「しょくざい?」

「そう、罪を償うの。別に罪を犯しているわけでもないのにねえ。そういう繊細過ぎる人がいるんだけれど、そういう人は、あえて孤独を選んで、そして武蔵野のようなちょっとだけ人くさい雑木林にこの世の癒しを求めるのかもね」

「香奈さんも贖罪をしているの?」と尋ねてから、私は無意味な事を聞いたと思った。そう、多分香奈さんは罪を償っているのだ。だがどんな罪を? それは私がうかがい知ることのできない香奈さんの心の中にしかない。もしかしたらキリスト教でいう原罪のようなものかもしれない。それもわからない。

そうした彼女は、いま秩父に暮らしている。秩父は武蔵野ではない。郊外が開発されたいま、「武蔵野」なんてどこにも存在しないのだ。だが、私たちは、その、かつて渋谷村と記された一角でこうして食事をしながら、過去を追憶している……。

「絶対読んでね。取材に取材を重ねた力作なんだから。まあ、取材よりわたしは人間の心の中の方に興味があるんだけどね。村上さんやあなたや。他にもとんでもない人のいろいろな『告白』が取り入れてあるよ」

冗談めかしてそういった彼女と私は別れた。そして、その夜、夜が果てるまで私は、私たち二人も端役くらいにはなっているその実録を読みふけったものである。