これはまずかった。

他の男たちと話している時、私には常に一定の距離があった。アクリルの板を1枚挟んでいる感じで、向こうが何を言っても、向こうが何をしても、それは全部アクリルの向こうの出来事だった。ショーケースに入った商品を眺めるかのようではなく、サファリパークで野生動物を見るかのような達観に近い感情があった。

アクリルの向こうで起きることを観察して、記録して、利用する。それが私のやり方だった。

でも本の話をしている時、そのアクリルがなかった。

彼が「あの作家は初期の方が好きだ」と言えば、私は反射的に反論した。反論したくて反論した。計算ではなかった。

彼が笑って「なんで?」と聞いてくれた時、私は理由を言葉にしようとして、うまく言葉にならなくて、それでも諦めずに言葉を探した。言葉を探している間、私は私だけのことを考えていた。他の誰かのことも、次にどこへ行くかも、考えていなかった。

そこには久しぶりに自分の輪郭があった。輪郭というのは、自分が自分であることの感触だ。好きなものがあって、嫌いなものがあって、言いたいことがある。

アイデンティティの確立。その感触が、ここ最近どこかに行っていた。知らぬ間に薄くなっていた。それが彼と本の話をしているあいだだけ、少し戻ってきた。正直、心地よかった。

戻ってきた、と気づいた瞬間に、私はそこに行くのをやめた。

理由は単純だ。

輪郭があると、痛みがわかる。麻酔が切れてしまう。痺れていた場所が戻れば、そこは痛くなる。

痛みがわかる人間は、傷つく。今さら傷つくつもりはなかった。今まで傷つかないために、感じない側に振り切ってきたのに。本の話をする声が、笑いながら反論する声が、言葉を探す時間が、全部そっち側に引っ張ってきた。

引っ張られたら、戻れなくなる気がした。戻れなくなったら、今まで積み上げてきた計算が全部崩れる。崩れた計算の上で生きていくことが、私にはできなかった。できないんじゃなくて、怖かったんだと思う。怖い、という言葉を使うのが嫌だったから、できない、と言い換えていた。

何度目かの夜、帰り際に靴を履いていたら、彼が「飯食ってから帰れば」と言った。

断った。断りながら、断りたくないと思った。断りたくないと思いながら、絶対に断らなければならないとも思った。

その矛盾を処理するのに、3日はかかった。それはそれは長い咀嚼だった。

感情は隙になるのだ。温かさは油断を生むのだ。油断は崩壊の入り口なのだ。これはS中学で学んだ原則で、今も有効なはずだ。

「はず」と保険を掛けてしまうのは、信じ切れなかったからだと思う。

信じ切れなかったのは、彼の部屋の本棚が、まだ脳裏に焼き付いているからだと思う。通路を作るように積まれた本の隙間に、人間が住んでいる。

その隙間に、私も少しだけいた。いたことがある、という事実だけは、どうにも捨てられなかった。

あの男に対して私は、学校で結んできた偽物の感情を抱いていなかったと思う。それを友情や親近感、はたまた恋愛感情と片付けてしまうのはあまりに簡単でどこかロマンチックかもしれない。彼が好きだった純文学のよう。

だが、私はあの男と過ごした数日を一言で、簡単にはまとめたくはなかった。その理由を言語化するのは今の私でも難しいが。

 

「大人の恋愛ピックアップ記事」の次回更新は11月1日(日)、12時の予定です。

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