【前回の記事を読む】「重い障害が残るなら安楽死させるべき」優秀な外科医だった夫がそう呟いた。ある夏の夜、救急病棟に8歳の少年が瀕死の状態で運ばれてきて……

オランダの壺

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運命の夜

実は私は数年前に流産をしていました。その子がこの少年に重なりました。

当時、私は流産をさして気にしませんでした。むしろ、これでずっと働けるとさえ思いました。なのに、横たわる少年を見ていると、胸に熱いものがこみ上げ、私は目を閉じました。

「ぼく、生きたいよ」

はっきり聞こえました。少年がしゃべったのです。私は反射的に目を見開きました。

――そんなわけないか。

ゴムチューブが通された口はしっかりテープで塞がれているのです。それでも私は少年の意志に触れた思いがして、涙が溢れてきました。

私は処置室を出ました。香川くんは廊下の先のソファから立ち、私が近づくと、サイダーの瓶を渡してくれました。

「どうしたんですか」香川くんに心の中を見透かされたように感じました。

「……なんか、あの子、他人とは思えなくて」

私は自分の言葉に戸惑いました。現場で感傷的になっていては務まりません。

「ぼくも一回あったな」香川くんの答えも意外でした。

休憩の後、香川くんは別の患者に走りました。

少年の様子を見に戻った私の足は、ドアの外で止まりました。処置室のガラス窓を通して、後ろ姿の勇が見えたのです。なぜか心臓が高鳴りました。

ドアを開けると、勇は弾かれたように振り返りました。

「なんだ、緑か」笑顔ですが、声はうわずっています。

私は勇のもつ注射器に目がとまりました。

「それ、何?」

強烈な不安に私の心臓は激しく打ちました。突如、忘れていた勇の言葉が蘇りました。

「あなた、まさか……」

勇は苛立った声で、

「この体じゃ、社会へ戻すほうが残忍だ。わかってやれよ」

勇の左手が少年の腕をつかみ、注射器をもつ右手がその腕に伸びます。

「止めて!」私の叫びに勇は半分だけ顔をこちらへ向け、

「すぐ楽になる」

そのあとの記憶は断片的です。看護婦が悲鳴を上げ、私は我に返りました。両手で握ったリストンが勇の背中に突き立っていました。外科手術用の三十センチもある切断刀です。私の両手は私の意思に反して刀を離してくれませんでした。

麻田はいったんノートを閉じた。布団から起き上がり、羽織に腕を通し、座椅子に座った。ほうじ茶を淹れて手を温め、ため息をついた。

麻田はノートを開き、つづくページに視線を落とした。