【前回の記事を読む】「重い障害が残るなら安楽死させるべき」優秀な外科医だった夫がそう呟いた。ある夏の夜、救急病棟に8歳の少年が瀕死の状態で運ばれてきて……
オランダの壺
11
運命の夜
実は私は数年前に流産をしていました。その子がこの少年に重なりました。
当時、私は流産をさして気にしませんでした。むしろ、これでずっと働けるとさえ思いました。なのに、横たわる少年を見ていると、胸に熱いものがこみ上げ、私は目を閉じました。
「ぼく、生きたいよ」
はっきり聞こえました。少年がしゃべったのです。私は反射的に目を見開きました。
――そんなわけないか。
ゴムチューブが通された口はしっかりテープで塞がれているのです。それでも私は少年の意志に触れた思いがして、涙が溢れてきました。
私は処置室を出ました。香川くんは廊下の先のソファから立ち、私が近づくと、サイダーの瓶を渡してくれました。
「どうしたんですか」香川くんに心の中を見透かされたように感じました。
「……なんか、あの子、他人とは思えなくて」
私は自分の言葉に戸惑いました。現場で感傷的になっていては務まりません。
「ぼくも一回あったな」香川くんの答えも意外でした。
休憩の後、香川くんは別の患者に走りました。
少年の様子を見に戻った私の足は、ドアの外で止まりました。処置室のガラス窓を通して、後ろ姿の勇が見えたのです。なぜか心臓が高鳴りました。
ドアを開けると、勇は弾かれたように振り返りました。
「なんだ、緑か」笑顔ですが、声はうわずっています。
私は勇のもつ注射器に目がとまりました。
「それ、何?」
強烈な不安に私の心臓は激しく打ちました。突如、忘れていた勇の言葉が蘇りました。
「あなた、まさか……」
勇は苛立った声で、
「この体じゃ、社会へ戻すほうが残忍だ。わかってやれよ」
勇の左手が少年の腕をつかみ、注射器をもつ右手がその腕に伸びます。
「止めて!」私の叫びに勇は半分だけ顔をこちらへ向け、
「すぐ楽になる」
そのあとの記憶は断片的です。看護婦が悲鳴を上げ、私は我に返りました。両手で握ったリストンが勇の背中に突き立っていました。外科手術用の三十センチもある切断刀です。私の両手は私の意思に反して刀を離してくれませんでした。
麻田はいったんノートを閉じた。布団から起き上がり、羽織に腕を通し、座椅子に座った。ほうじ茶を淹れて手を温め、ため息をついた。
麻田はノートを開き、つづくページに視線を落とした。