「この旅館に、また温かい空気が戻った気がします」
胸が熱くなった。涙が滲みそうになるのを必死にこらえた。
風が吹いて湯気が流れた。よし子がふと顔を上げると、岩の陰から藤堂さんがこちらを見ていた。月明かりの中、その瞳が静かに揺れている。
いけない、と思った。この人は雇い主だ。私は従業員で、48歳で、おばさんで——。
でも目をそらせなかった。月の光に照らされた藤堂さんの横顔が、あまりにも寂しそうだったから。この人もずっと1人で、誰かのぬくもりを忘れかけていたのだ。自分と同じように。
よし子の目からぽろりと涙がこぼれた。なぜ泣いているのか分からなかった。正志を思い出したのか。藤堂さんの寂しさが伝わったのか。それとも、自分の中の何かが動き始めたことへの戸惑いか。
藤堂さんがゆっくりと岩を回ってこちらに来た。近づきすぎない距離で止まり、手だけを伸ばした。指先がよし子の頬に触れ、涙をそっと拭った。
何も言わなかった。ただその指先だけが、月の下で温かかった。
「……すみません。急に泣いてしまって」
「いいんです。泣きたい時に泣ける場所があるのは、いいことです」
藤堂さんの手が離れた。よし子は頬に残る指の温もりを感じながら、じっと月を見つめた。心臓がまだ速く打っている。頬に触れられただけで、体がこんなにも震えるなんて。
山の奥で鹿の鳴く声がした。月が薄い雲にかかり、湯気が2人を包んだ。
何かが変わった夜だった。何も起きていないのに、すべてが変わった。部屋に戻って布団に入っても、頬に残る指の感触が消えなかった。天井を見つめながら、よし子は自分の頬に手を当てた。まだ温かい気がする。48年間、知らなかった感情が胸の奥で小さく灯っていた。
「月川みのり・新作公開記念!『愛され未亡人の、湯けむり恋物語』ピックアップ」
次回更新は10月24日(土)、17時の予定です。
月川みのり氏・最新作も11月からGLOで連載開始予定! お楽しみに!
▶この話の続きを読む
あの夜から3日、触れられた温もりがまだ消えない…意識して目も合わせられないけど、実は彼の“サイン”に気づいていた
▶『愛され未亡人の、湯けむり恋物語』を最初から読む
“ある条件”さえのめば、月給32万円のハロワ求人…娘に見せると震える声で「月に1度は必ず帰ってこれるんだよね?」と…
▶この作品を読んだ方におすすめ
男女の本音と複雑な恋模様を描いた人気小説集『火点し時』
【第1回】月に3回、同僚とホテルへ行く習慣ができた。職場の飲み会の帰りにそういう流れになって、恋人はいたけど止められなかった。
ゴールドライフオンラインは、表現者を応援するウェブメディアです。
生身の人間が紡ぐリアルな言葉だからこそ、読者の心を揺さぶる力があると確信しています。
あなたも、"表現者"になってみませんか?
ゴールドライフオンライン編集部:glo_henshu@gentosha.co.jp