【前回の記事を読む】難関大学の入試中、答案用紙に突然、赤い血がポタリ…鼻にティッシュを詰めていると、試験監督員から“1枚の紙”を差し出され……

第1章 家庭教師

令和6年5月のある日。渥美隼人(あつみはやと)は実妹である下沢幸恵(ゆきえ)宅のソファで、幸恵と向かい合っていた。

今日は幸恵の夫・寛(ひろし)の七回忌の法要だった。寛は高速で車4台が絡む事故に巻き込まれて即死した。都内の中堅商社勤めで働き盛りの52歳。早すぎる別れとなった。

法要が終わり、小田急線伊勢原駅前のカニ飯店で親戚縁者らと会食した後、隼人は幸恵からちょっと寄っていかないかと誘いを受けたのだった。女手一つで二人の息子を育てている幸恵は日々忙しく動き回っている。

少し疲れた様子の見える幸恵の顔から苦労が偲(しの)ばれる。気晴らしにでもなればいいと兄妹で他愛もない話をしながら時間を過ごしていた。

「仕事のほうは順調なの?」

寛の思い出話もそろそろ尽きた頃、幸恵が隼人に聞いてきた。

「いや、もう辞めたんだ」

「そうだったの。63歳なんてまだ若いじゃない。うちの職場にも60代の人が大勢いるわよ」

「仕事もマンネリ気味だし、もういいかなと思ってな」

隼人が苦笑交じりに答える。

「家にずっといると、浩子(ひろこ)さんに煙たがられるわよ」

「もうとっくにそうなってるよ。まあ、いずれ何かやろうとは思っているけどな」 

隼人は今年の3月、それまで勤めていた文部科学省傘下の科学技術研究所を退職した。60歳で一旦定年退職し、再雇用で65歳まで働く予定だったが、2年ほど早めに退職したのだ。

隼人はお茶を一口飲んだ。

「ところで、悠太は残念だったな。数学ができるって聞いていたから期待してたんだよ」

悠太は幸恵の長男で、T大受験に失敗し、再挑戦に向け浪人中だ。T大は国内最高学府であり、隼人の母校でもある。そのこともあって、悠太について兄妹間で簡単な連絡は取っていた。

「本人も自信を持っていたようだし、私も受かると思っていた。けど、甘かったわ」

幸恵は肩を落とした。

「滑り止めは受けなかったの?」

「うちでは私立にはやれないし、どこも受けなかった」

「国立の後期は?」

「あまり良いところがなくて、本人も考えていなかったみたい」

「今、予備校には行ってるの?」

「週1回、S予備校の町田校に通ってるけど、あとは家で勉強するか図書館へ行くかだわね」

「美咲(みさき)ちゃんも来年受験でしょ。どこを狙ってるの?」

幸恵が話を変えた。

美咲は隼人の一人娘で都内の中高一貫校Y女子学園に通う高校3年生だ。